2010年2月28日日曜日

ゴリ押し営業と脅し営業は信用するな

 営業マンで困るのはゴリ押ししてくるタイプと、脅しをかけてくるタイプである。

ゴリ押しタイプ

 ゴリ押しタイプは、自信満々な若干勘違いしているような人に見られる。新人ではないけど、ベテランでもない中間層に多い気がする。自分なりのやり方で営業を進めていって何だかうまくいったので、自信を持ってしまった感じである。
 こういうのが来るととにかく対応が面倒くさい。もう、面倒くさいと感じさせてしまった時点で、その営業は失敗しているのだが、彼らはとにかく一度話を聞いてほしい、上司に合わせてほしいの一点張りである。つまり、キーマン以外とは話さないよ、ということだ。
 しかし、決定権を持っている人というのは、案件が集中しやすいので、わざわざ初見の営業マンと会おうなどとは思わない。そのために部下がいるのである。部下に話を聞かせて、それで何かのときに提案してくれれば、採用するし、その際に自分でもきちんと話を聞いて確かめておきたいと思えば、会う。その程度ものである。最初から、決定権を持つ人にあわせてもらおうというのは、むしがよすぎるのである。
 しかし、困ったことに頑として会わせてもらうまで動こうとしない。結構スポーツマン系、体育会系に見られる傾向だと思う。
 こういうときの対処法は、同じ戦略を使うしかない。つまり、頑として無理です、と言い張るのである。にこやかに対応して引き下がるまで続けてもよい。しかし、それでも引き下がらないならば、若干イラついて見せてもいいだろう。相手を怒らせてしまっては、引き下がる以外に道はない。
 ゴリ押しタイプの話を聞き出したら、こちらに得にならない商材であっても、平気で売りつけてくるかもしれないし、彼らの説明が必ず信用できるものとは思えない。だから、ゴリ押しタイプとわかった時点で、絶対に取引の相手には選ぶつもりになれない。

脅しをかけてくるタイプ

 もう一つ、信用できない営業マンは、脅しをかけてくるタイプである。とはいっても、買わなかったらどうなるかわかってんだろうな、などといってくるわけではない。そんなことを言ってきたら警察を呼べば済む話である。このタイプは保険会社や車のディーラーなど、安全・セキュリティが絡んでくる会社の営業マンに見られる。
 つまり、すばらしい未来を見せる提案ではなく、相手の不安をかきたてて、だから必要なんですよ、と説明してくるのである。このタイプで困るのは既に取引をしていて、付き合いがある場合である。そうでなければ、この時点で選ばなければよい。検討しますだのなんだのといって、うやむやに断ってしまえばいいのだ。アポなしで来たら、アポなしでは会えないと断り、電話でアポをとろうとしてきたら、忙しいから無理と言えばいい。
 しかし、向こうは既に会社と付き合いがあり、その担当者としてこちらが新しく配属された場合には、向こうに知識も経験もあるので、イニシアティブをとられやすくなってしまう。こちらが入社したばかりの新人なら尚更である。そういうものなのかなと思ってしまう。相手が、~という理由で安くするのは危険なので、無理だと言っていたと、上司に報告することになり、上司は上司で、負けさせろと突っ返され、あなたは板ばさみで苦しむことになる。
 こういうときの対処法は、基本的に相手の不安を煽るような営業マンは今後信用しない、とまず心に決めることである。
 信用できない会社とはどういう付き合いをするかといえば、フェードアウトである。いきなり契約をきることはできないのだから、徐々に契約数を減らしていくとか、新規に必要な案件があってもその会社には回さない、ということをやって、徐々にその会社との取引量を減らしていくのである。
 そして、よりよい条件を出してくる別の会社を見つけることである。合い見積をとるのだ。
保険や車を取り扱う会社は多く、今まで全く契約したことがないという場合ならば、かなりディスカウントした額で契約をしてくれることが多い。今まで契約をしている会社だから、よくわからないし今までどおりの会社と契約をしよう・・・と新人だから余計なことをしないように、しないように、とするよりも、もっと攻撃的に安くていいところを開拓した方がやる気があるように見られ、あなたの評価も上がる。
 いずれにせよ、相手の方が知識が豊富であると、こちらは相手の言いなりになりがちである。だから、既に取引している会社があれば、来社した際に、いろんな質問をして相手から専門的な知識を補充するなり、自分で勉強するなりして、相手の話を鵜呑みにしない頭を手に入れるよう努力すべきだ。

2010年2月27日土曜日

ピクトさんの本 ― 内海慶一

 会社の私のデスクの隣人、K氏は、様々なジャンルの本を読んでいる。それは、小説から実用的なものから、知識の収集のためのものから、面白いものまで、多岐にわたる。

 今回借りた「ピクトさんの本」は、ブログが発信源だそうだ。ピクトさんとは、ピクトグラムのこと。いわゆる標識などに登場する人のマークである。彼らのいろんなデザインを集めて、いかに酷い目にあっているかを紹介する本である。日本だけでなく、世界中のピクトグラムを写真に収めて紹介している。中にはかなりリアルなものまであり、驚く。

 このいろんなピクトグラムを集めただけの本をなぜK氏はほしがったのだろうか、と考えてしまう。半分が写真のページで、字も少なく内容もふざけている。ああ、こんないろんなマークがあるんだな、とちょっと笑える息抜き、なのだろうか。
 しかし、この本をK氏は仕事の流れで紹介してきたのである。K氏の部署で独自のピクトグラムをデザインして、仕事に使おうとしていたときに、ふとこの本の存在を思い出したらしく、机からひっぱりだしてきたのである。

 読書とは、ただ面白そうだなという興味を持ったら即買い、即読む、というのがいいのかもしれない。するとその後は、その本は資料に変わるようだ。

2010年2月26日金曜日

業者を使った電話アポイントメント営業は受ける必要なし

 大企業によくみられる営業手法で、電話でアポイントメントをとるのだけど、こちらが会ってもいいと言うと、「当日は私ではなく○○という者が参ります」というのである。

 つまり、電話のアポイントメントを、アポイントメントをとるだけの業者やバイトに任せているのである。私は古い考えなのだろうか、人に任せている時点で失格だと思うのだ。
 これはよく広告を大々的にうっている最大手とか、すごく規模の大きい業者などが使うことが多い。

 このような営業手法をしてくる相手とは会う必要はない。こうした電話営業でOKを出して何度も会ってみたけど、会う必要はなかったなとつくづく思うのだから間違いない。

 まず、こうした大規模な業者は、社員の入れ替わりが激しいことが多く、大量に辞めるので、大量採用で簡単に就職できる傾向にある。簡単に入社できた社員は、ろくな教育を受けることもなく、学生の延長気分で仕事をするため、非常にいい加減である。
 約束を守らなかったり時間に遅れてきたり、今日セミナーがあるんですが、今からこれないか、などと非常識な誘いをかけてきたりする(そのときは、近くなのでタクシーに乗ればすぐです、といわれた。流石にタクシー代を払ってくれるのか?とは聞かず断った)。自社製品の知識など殆ど持ち合わせていない。もっていたとしても、会社の説明会で全社的に説明を受けた、と言う程度の知識である。つっこんだ質問には答えられない。しかも、その質問を宿題として、次回にもってくることもしない。

 酷いケースとしては、電話のアポイントメントをとったのに、当日来なかったり(それ以来何の連絡もないが、その業者からは何度もアポの電話が忘れた頃に入るので、今後もあると思う)、その業者主催のセミナーにいったら担当営業がいて、終わった後にその人と話をしていると「このあと暇なんだよな~」とつぶやいたりしている。
 また、彼らが自らアポを取ることは殆どないと言ってもいい。最初のアポは業者任せだし、次回からは飛び込みで直接会社に来てしまう。いきなり新入社員を連れてきて、新人研修の一環なので・・・などと言ったりする。
 そういうときは、事前に約束のない業者とは会わないことにしている、と断ることにしている。総務から連絡が入るので、直接ではなく、そういって断ってください、と任せてしまえばよい。

 とにかくやる気のない業者と会うのは時間の無駄である。

2010年2月25日木曜日

迷惑電話の断り方

 会社に長いこといると、どこからか名簿が出回るのであろう、土地売買やらマンション経営やら株式だのといった電話営業がかかってくる。これは仕事は全く関係なく、個人的なことなのだが、会社にかかってくるので、とても迷惑である。しかも、彼らは丁寧に断ったとしても、中々話をやめようとしない。こちらが言っていることなどお構いなしに話を続けようとしてくるのである。

 こういう電話は有無をいわさずきってしまうのが一番よい。私の経験からして、30秒以内に切ってしまうのがいい。

(1)正攻法な断り方

 相手の話を聞いていて、土地売買とかマンションとか具体的な内容に入ったら、相手が話をしていようがなんだろうが、構うことなく「まったく興味ありません」と答え、相手の返事を待つことなく受話器を切る。これが一番何のトラブルもない断り方だと思う。

(2)ちょっと心が痛む断り方

 (1)でも十分心が痛むと思うかもしれないが、この断り方はそうではなく、慣れないと自分に若干ダメージがある断り方である。
 相手がこちらの名前を確認してきたら「先日亡くなりました」と答えるのである。私はこの断り方を3回ほどやってみたことがあるが、何日かおきにかかってきていた電話がピタリとやむ。やんだからといっても、1年から数年経てばまたどこからか名簿が流れて・・・という繰り返しなのだけど、当面は電話はやむ。自分を死んだことにするので、縁起が悪いしちょっと気落ちしかねない。心の強い方にお薦めである。

 次によくないパターンを2つ紹介する。これは実際に会社で実行した人がいて、失敗したケースである。

(1)丁寧に話を聞いてしまう

 優しい人にありがち。とにかく丁寧にソフトに相手の話に受け答えをしてしまう。最終的に断ればいいではないか、と思っているのなら大間違い。長く話を聞けば聞くほど、この人はいつか落ちる、と思われるのである。つまり、そのときは電話を切れても、短い期間に何度もかかってくることになるのである。

(2)相手が聞くまでしつこくいいきかせる

 「迷惑なので、こちらには二度とかけてこないでください」という主旨の断りを、理路整然とそして毅然とした態度で、かつ若干怒り気味に、また諭すような感じもあり・・・という断り方。特徴的なことは、短時間ではなく、長時間にわたっていいきかせるところにある。本人は、相手に怯むことなく、また、途中で投げ出すことなく断った、と満足感があるかもしれない。しかし、これをやると相手が怒るのである。
 向こうからかけてきて勝手なことをいう、と思うかもしれない。でも、怒った相手は、営業妨害ともいえるようなことをしだす。電話を短時間に何度もかけてきたり、ものすごいクレーム電話をかけてきたり・・・である。
 会社の人で、そういう受け答えをしたために、1時間以上もしつこく電話をかけられている人がいた。

 個人情報保護法をかさに来て、「何で私のことを知っているんだ」とか問いただすのも時間の無駄でしかない。相手はなんだかんだと適当なことをいって、個人情報保護法違反ではないと言ってくる。こちらが何と言おうとも、その程度の問答集は用意しているのである。とにかく長く話すのは避けたい。丁寧に話そうが、きつい言い方をしようが、長時間はダメなのだ。

 最後に、絶対やってはいけないのが、余計な個人情報を相手に教えることである。これは、他の人が代理で電話に出たときにやってしまうことがある。相手にとっては、営業相手が誰であろうが関係ないのだ、「○○は今電話に出られません」といったら、標的をあなたに変えてくることがある。このときに、名前を聞かれたからといって答えてはならない。そのときの電話は切ったとしても、次からはあなた宛にかかってくることになる。名前を聞かれたときに教えるのを断り辛いのであれば、嘘の名前を言うのが一番いい。

 とにかく30秒以内にすっぱりと断ることである。こちらが話すセリフは「はい」と「まったく興味ありません」の二言でよい。最初の「はい」は、電話をとったときの確認の返事で、「まったく興味ありません」は、本題に対する返答である。

 周りの人に聞こえたら・・・とか、ビジネスマンとしてよくない・・・とかお上品なことを言っている場合ではない。カモにされるかされないか、なのだ。相手をすればそれだけ仕事の時間が削られるのだ。周りの人には、電話を切った後にフォローしておけばいいのである。

2010年2月24日水曜日

電話によるアポイントメント営業を受ける必要はあるか

 結論からいうと、「よほど気が向かなければ必要なし」である。

 私の経験でいうと、大抵の場合、営業電話を受けた後にその業者に会っても得るものは殆どない。なぜなら、こちらが必要と感じていないからだ。
 向こうは会ってもらうことが第一歩と考えているので、巧みな言葉でとにかく一度名刺交換だけでもしたい、とお願いしてくる。時間に余裕があればあってもいいのだが、人間関係の幅が広がるだのなんだのと考えて無理に彼らに逐一会う必要はない。そのときに必要ないと思ってもいつか必要と思うことがある、と思うかもしれない。しかし、そういう時が来たといって、その業者に連絡をとるかは別の話だ。
 むしろ、あんな業者がいたな、と安易にその業者に連絡をとってしまうのはよくない。その案件が起こってからはじめて様々な業者に声がけして合い見積をとって比較するべきだろう。

 私は、新しい部署に異動し、最初の1年間で、かかってきた営業電話の業者に片っ端から会ってみた。もちろんいい情報があれば得たいし、こちらにとっていい話を持ってきてくれれば取引してもいいと思ったからだ。
 しかし、大抵の営業マンは、向こうの売りたいものを売ろうとするだけで、こちらの要求を満たすものはもっていない。そして、その業者がもつ最高に高いサービスを提案してくる。こんな小さな会社なのに、何を考えているのかなといつも呆れてしまう。なぜ大企業並の大規模システムを提案してくるのだろうか。来る前にこちらの規模を調べるくらいのことはしてほしい。

 ちょっと慣れた営業もしくは何かのノウハウ本を読んだ営業は、こちらの悩みを聞きだそうとする。そのものずばり「お困りのことは何ですか」などと言ってくる。
 何か言わなきゃ悪いなと思って、ちょっと頭に思っていたことを言ってみたりすると、そこからいろんな提案をしてきて、次に来るときは見積を持ってくるだの、セミナーに参加してほしいだの、自分のオフィスでの実践を見てほしいだのと、幾らでもネタをもって毎週でも会いにこようとするものだ。1回ならばいいけども毎週こられたのではたまらない。
 結局もとから契約するつもりもないのだから、最終的には適当に言葉を濁して保留になるだけなのだ。だったら最初から会わなくてもいい。

 今はネットでも様々な業者が宣伝をしているのだから、必要なときに調べて連絡をとればいいだけだ。そのときにタイミングよく電話営業してくるところがあったら会ってもいいかもしれない。

 かくいう私は、殆ど電話営業は断っているのだが、たまに気が向くときがある。
それは相手の話し方だ。
 こちらが不快に感じない話し方をする人とは会おうかなという気になる。これは感覚の問題なので、なんともいえないのだけど、変に型にはまった話し方をする人がよくいる。そういう人は、自分なりの話し方のパターンを文字通り作り上げているのだろう。それなりに工夫したのかもしれない。
 けれども、裏と表があまりにもはっきりしすぎているような話し方をする人は、信用できない。とにかく売りつけて営業成績を上げようという魂胆が透けて見える。胡散臭い話し方ではなく、誠実な話し方でなければダメだ。
 誠実な話し方をした営業マンに会って話をしたときは、やはり気持ちのいい営業をしてくる。ゴリ押しはしないし、何かあったときには声をかけてほしいという感じで、30分から1時間ほど営業トークをして帰っていく。

 やたらとこちらの悩み事を聞きだそうとしてくる業者には、特に今は困っていることはない、と適当に返事をするようにしている。悩みを聞くというのは、いわゆる提案解決型の営業をしようということなのだろうが、結局はその業者のもつ範囲内での提案となるので、こじつけ営業になりやすい。
 こちらから声をかけてきてもらうのと、向こうから勝手にくるのとでは、大きな違いがあるのである。

 ちょっとこの営業マンは好きになれないなと思ったときには、こちらの悩みとして、予算がまったくないとか、業者にはどうしようもないことを言ってみたりする。すると案の定、業者はすんなりと引き下がるか、まったく見当違いの提案をしてきたりする。こちらとしては、どうしようもないことではなく、予算がないなりにお互いが得をするような提案をしてくれるようなすごい営業をまっているのだけど、今のところそのような提案は受けたことがない。

2010年2月23日火曜日

WMVをFlash動画に変換してHTMLで配信する

WMVをFlash動画に変換してネットで配信するのに便利なソフトが、

FreeVideoToFlashConverter
http://www.dvdvideosoft.com/guides/dvd/free-SWF-FLV-video-converter-convert-video-to-SWF-FLV.htm

である。

使い方

(1)「入力ファイル」に変換したいWMVファイルを指定する。
参照ボタンで指定できる。ドラッグ&ドロップにも対応している。

(2)「出力フォルダ」を指定する。

(3)出力形式を「FLV」か「SWF」を指定する。
FLVにすると、動画の再生・停止コントロールも付加される。

(4)「オプション」で、変換した動画のサイズを指定する。

(5)「変換後にサンプルのHTMLファイルを表示する」にチェックを入れる。

(6)「変換」をクリック。

「変換後にサンプルのHTMLファイルを表示する」にチェックが入っていると、HTMLで配信するために必要なファイル一式と共に、HTMLコードが表示される。
出力されたファイルは、すべて同一階層に保存されていることが前提になっているので、ディレクトリを変える場合は自分でコードを調整する。

2010年2月22日月曜日

Flash動画をストリーミング配信するHTMLコード

Flash動画をウェブページ(HTML)でストリーミング配信するには、以下のように記述する。

<object id="FP" codebase="http://download.macromedia.com/pub/shockwave/cabs/flash/swflash.cab#version=6,0,29,0" classid="clsid:D27CDB6E-AE6D-11cf-96B8-444553540000" width="200" height="120">
<param name="_cx" value="5291">
<param name="_cy" value="3175">
<param name="FlashVars" value="">
<param name="Movie" value="sample.swf">
<param name="Src" value="sample.swf">
<param name="WMode" value="Opaque">
<param name="Play" value="-1">
<param name="Loop" value="-1">
<param name="Quality" value="High">
<param name="SAlign" value="">
<param name="Menu" value="-1">
<param name="Base" value="">
<param name="AllowScriptAccess" value="sameDomain">
<param name="Scale" value="ShowAll">
<param name="DeviceFont" value="0">
<param name="EmbedMovie" value="0">
<param name="BGColor" value="FFFFFF">
<param name="SWRemote" value="">
<param name="MovieData" value="">
<param name="SeamlessTabbing" value="1">
<param name="Profile" value="0">
<param name="ProfileAddress" value="">
<param name="ProfilePort" value="0">
<param name="AllowNetworking" value="all">
<param name="AllowFullScreen" value="false">

<!-- value='always' SWFファイルはHTMLページと通信できる -->
<!-- value='sameDomain' SWFファイルとHTMLページが同一ドメインに配置される場合のみ、SWFファイルはHTML ページと通信できる -->
<!-- value='never' SWFファイルはHTMLページと通信できない -->

<!-- Flash動画ファイルのパス -->
<!-- 相対パス、絶対パスどちらでも指定できる -->

<!-- 画質 -->
<!-- value='high' 高画質 -->
<!-- value='low' -->
<!-- value='medium' -->
<!-- value='autolow' -->
<!-- value='autohigh' -->
<!-- value='best' -->

<!-- 背景の透過 -->
<!-- value='opaque' 透過しない -->
<!-- value='transparent' 透過する -->

<!-- 背景色 -->
<!-- RGB16進数で指定 -->

<!-- ブラウザ内での表示 -->
<!-- value='showall' 縦横比を維持しすべて表示 -->
<!-- value='noborder' 縦横比を維持し枠線なしで表示 -->
<!-- value='exactfit' 縦横比を無視しサイズに収まるように表示 -->
<!-- value='noscale' 指定したサイズで表示 -->

<!-- EMBED要素 -->
<embed name="FP" src="sample.swf" width="200" height="120" quality="high" wmode="opaque" bgcolor="#FFFFFF" type="application/x-shockwave-flash" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>


</object>

2010年2月21日日曜日

誘拐 ― 本田靖春

 「戦後最大の誘拐事件」と言われた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の顛末について記したル本田靖春のポルタージュ。まず読んで感じたのは、ノンフィクションであるがゆえに一切の無駄がなく、淡々と成り行きや人物の生い立ちなどが語られていく様子である。フィクションの小説であれば、「ここまで微細に書く必要があるのか、このサイドストーリーは流れの中で意味を持っているのか」と考えてしまう部分がある場合がある。それが冗長に感じられ、ただページ稼ぎのためにつけた文章ではないのかという余計な猜疑心を生んでしまう。それがない本書はすらすらと読み進められてしまう。

 「吉展ちゃん誘拐殺人事件」について、私は殆ど知らなかった。マスコミは、誘拐された吉展ちゃんの安全を第一に考えて、初めて報道協定を結び、事件が展開を見せるまで報道を控えた。また、この事件をきっかけにこの種の事件が増えたために、1964年に刑法225条の2(身代金目当ての略取・誘拐は無期または3年以上の懲役)が規定されるなど、様々な影響を各方面に与えた事件である。

 犯人と目される男の生い立ち、事件の発生と展開、一進一退の捜査、といった内容が徐々に展開していく様子を読んでいて、この事件は解決しなかった事件なんだと思っていた。しかし、諦めかけた事件解決に最後のチャンスとして集められた新しい捜査チームが、もう一度理詰めで捜査をして犯人を追い詰めていく様は、執念の一言につきる。信念を持って決して諦めず、冷静さを忘れない、その行動力が結果に結びつく。そういうことだと思った。

 もう一つ、犯人の側からの背景も考えさせられる。犯人が誘拐を思いついたきっかけ、犯行の対象をどのように選んだのか、犯人の生い立ち。といったこと全てが、この事件の悲しさを物語る。もちろん犯罪は許されるべきことではないし、幾ら犯罪に走る背景があったとはいえ、このような残虐な行為に至ったことを正当化できるものではない。それでも貧困で臆病であるが故に犯罪を思いつき重い罪を平気で犯してしまうという構図、これは今の時代においても同じことではないか。アフリカ諸国の貧困が招く無法も、日本におけるワーキングプアによる犯罪も何ら変わりはない。なぜこのようなことが起こってしまうのか、それを考えることが、何十年も経った今、本書を読んだ私にできることではないか。そして、本書を綴った作者の願いではないか。

 不正ばかりが大々的に報道されるようになってしまった昨今の警察の信頼感の低下は、無秩序への道を歩み始めた兆しを日本が見せているのではないかと思ってしまう。本書の悪を許さない徹底した姿勢こそが本来の警官の姿である。一般人と警察官の境目が曖昧になっている今の時代、もう一度本書を読んで本来の姿をイメージしてみてはどうだろうか、と思ってしまう。

 まるで小説であるかのような細かな描写、会話、行動。事実だからこその臨場感。そしてそれを実現させた完璧なまでの取材がこの本を興味深いものにしている。事件を風化させないためにも、本書を読むことをお薦めしたい。

2010年2月20日土曜日

三国志1~8巻 ― 吉川英治

 映画「レッドクリフPart2」が上映され、何かと話題になった三国志である。

 三国志は昔、横山光輝の漫画版で読んだことがあった。しかし、それはかなり昔の話なので、もはやどういう結末だったのか良く覚えていない。そして、そのまま放っておいたのだけれど、最近、「ビジネスマンは三国志や司馬遼太郎を読んでいる人が多いので、読んでおけば何かと話のタネにもなるし、いい」という話を聞いたことをきっかけに読んでみた。

 調べてみてわかったのが、三国志の原書には歴史書と、その歴史書に面白みを加えた物語の2種類があるということだ。歴史書は「三国志」といい、物語は「三国演義(三国志通俗演義)」という。

 日本でも多くの作家が三国志を書いているけど、その中でも群を抜いて面白いと言われているのが吉川英治の三国志である。それは、実際の三国志にさらに吉川ならではのアレンジを加えているためであるらしい。そのため、他の作家が書いたものとは大きく異なっており、「吉川英治のは面白いのに、なんであなたのはつまらないのか。」という苦情が寄せられるほどだという。裏を返せばそれだけ面白いということなのだから、最初に読むなら吉川英治で間違いないだろう。
 また、吉川英治版「三国志」は、横山光輝版漫画「三国志」が原作として取り上げているため、漫画を読んだ人には読みやすい内容になっている。

 さて、三国志を読んでみて思ったことは、歴史小説というのは果たして面白いのか?ということである。原作よりも面白みが増すようにアレンジが加えられているというだけあって、それなりに面白いのだけど、8巻ともなるといささか長い。この長さゆえ、話がパターン化してしまうのだ。最初の方は劉備が旅立ち、関羽・張飛を仲間とするなど、ストーリー展開が面白いのだけど、やがて仲間集めも一段落し、国対国の攻め合いになっていくと、策を弄する→攻める→戦う→勝敗が決する、といったことの繰り返しになってしまう。史実に基づいているといえばそれまでなのだけど。

 その中でも楽しませてくれるのが魅力ある武将の逸話である。豪傑は豪傑として、せこい奴はせこく描かれており、そのキャラクターのふり幅が大きいため面白い。こういうときは大げさに表現するのがいいと原作者も思ったのだろうか。
 また、原書をそのまま訳しているという描写も面白い。「血の涙を流して悲しん」だり、「憤死」したり、「絶望のあまり昏倒」したり、「悲嘆して元気がなくなり病死」したりと、現実であれば、あまりにも精神的に脆い人たちの集まりではないか。注によれば、これは実際にそうであるということではなく、それくらいに衝撃を受けた、ということを伝えるための表現方法らしい。さらに、占星術がまことしやかに信じられており、星が落ちたら誰かの寿命が潰えたことを意味しており、それを根拠に攻め入ったりする。

 人物の魅力として劉備の仁徳について言われているけど、どちらかというとお坊ちゃん的な甘さが残る印象を受けた。また、劉備のどこがすばらしかったのかという点はあまり語られておらず、なぜみんなが劉備を慕って集まったのかの理由が弱い気がした。
 腕力もなければ知力もない。政治力もそれほどないけど、理想は持っている。という人なんて、結構いるんじゃないだろうか。

 それよりも関羽の仁義の厚さ、張飛の超人的な強さと精神の弱さ、曹操の狡猾さ・臨機応変さなど、周りを固めるキャストの方が魅力的である。そんな中でも孔明である。

 途中から劉備は、自分の仲間には智略に富む者がいないことを問題視し、人材を探すことに時間を費やす。そして、有名な三顧の礼を経て、ようやく孔明という最高の軍師を得るに至る。孔明獲得以後、劉備は何かにつけて孔明の助言を得ようとする。戦略を立てるのも、次に何をするのかも、全て孔明に任せるようになるのだ。

 では、劉備って何なの?である。そもそも魏・呉・蜀の三国を相対させて、各国の均衡を保たせるという構想自体、孔明のものだ。劉備にあるのは漢朝の復興のみである。

「漢朝の復興したいんだけど、後は考えてくれる?」という丸投げ状態だ。

 孔明はその智略や冷静さにスポットライトが当てられ、人間味という点はあまり感じられない。ただ、立てた作戦がすべからくうまくいく、ということのみで、その凄みが感じられるのである。それが他の英雄と違って、逆に印象が薄く感じてしまう気がした(物語後半ではほぼ彼の独壇場ではあるのだが)。

 三国志は歴史書であるため、劉備や孔明が亡くなった後も続いていく。ところが、孔明亡き後、魅力的なカリスマが登場せずに小競り合いが続くため、急激に話としてつまらなくなるのだそうだ。そこで、本書でも孔明の没後は、ダイジェスト版といった形で、歴史を年表のように追うだけにとどめられている。

 読後に感じたのは、この長い話を読みきったという達成感である。そして、死というのは都合よく待ってくれたりはしないということだろうか。

2010年2月19日金曜日

古代猛獣たちのサイエンス ― 実吉達郎

 幼い頃、実家には動物や植物、鳥や虫、魚介類などの図鑑があり、それらをただ眺めているだけで楽しかった。植物よりも鳥、鳥よりも虫や動物、魚介類ならば深海魚といった、不思議な形をしていて動きのあるものに惹かれた。

 その中でも特に興味をひいたのが恐竜だった。もはや生きていないし、骨以外の実物を見た人がいないにも関わらず、なぜこの皮膚感・肉付き・色なのだろうかと思ったりもした。その凶暴な顔つきと不思議な骨格に、単純に格好いいと思ったものだ。
 それから数年経って、映画「ジュラシックパーク」を見たときは、現代のCG技術に驚かされた。見たことはないけどあまりにリアルに感じられる恐竜の質感にわくわくしたものだ。

 それからまた数年が経って、久しぶりに実家に帰り、部屋の棚の整理をしていたら、「古代猛獣のサイエンス」という本が出てきた。チラっと中身を読んでみたら、面白そうだった。きっと自分が昔に読んだものなんだろうけど、まったく内容は覚えていない。それでもう一度読んでみることにした。

 著者は動物学者で、UMA(未確認動物)という名前をつくった人らしい。様々な恐竜・猛獣の骨格などから、その生態を推測するというのが本書の主旨。やはり現存していない生物の話なので、推測するしかないのだ。その世界観に浸れるかどうかということになってくる。すると、そこで最も残念なのが、たくさんの恐竜の名前が出てくるにも関わらず、その姿の図がないために、どういった恐竜を引き合いにだしているのかがわからないのである。コンピュータでも隣にあって調べながら読むのであればいいけど、本を読むときにそんな面倒くさいことはしない。
 また、小説に書かれている話から、その恐竜の生態を推測するというのは、ちょっと無理があるのではないかなと思ってしまう。恐竜・猛獣が偏っているのもつまらない。
 それでも、ティラノザウルスの前足はあんな小さくて何の役に立つのか?サーベルタイガーの歯はあんなに長く伸びて使い勝手はよかったのか?といった問題提起を聞くだけで、興味を惹かれるものがある。
 些細なことに疑問を持って、それを理論的に推測する、という楽しさを教えてくれる本かもしれない。

2010年2月18日木曜日

グロテスク ― 桐野夏生

 2003年刊行の桐野夏生の小説。本書は、実際にあった「東電OL事件」をモチーフにしているという。本書を読む前にどのような本なのかを調べてみたところ、そういった事柄が書かれていた。
 しかし、私はその事件について全く知らなかった。1990年代の事件らしい。東京電力で管理職を務める慶応大学卒のエリート女子社員が、アパートの一室で絞殺死体で発見されたことが発端で、調べていくうちに女子社員が夜は娼婦として街頭に立ち客をとっていたということが判明。当時、センセーショナルな内容で様々なメディアに取り上げられ、あることないこと書き立てられ被害者当人のプライバシーは侵害され、家族にも多大な迷惑がかかったらしい。それを知らなかったのは、当時はニュースや新聞を読まなかったからかもしれない。ちょっと情けないことである。

 さて、その東電OL事件をモチーフにした本作品である。ところが読み進めていくと、その「東電OL」は本書のテーマのメインでありそうでなさそうだ、という曖昧な位置づけであることがわかる。本書でクローズアップされるべきは、心情の書き分けである。

 本書には4人の主要な人物が登場する。

 若干頭はいいがずば抜けていいわけではなく美貌の妹と比較され陰を歩いてきた主人公「わたし」、絶世の美女で根っからの娼婦「ユリコ」、自分の価値を頭のよさと考えてそのことだけにとらわれる「和恵」、ユリコと和恵を殺害したとして逮捕される出稼ぎ外国人「チャン」。
 4人の話が交互に現れるのだけど、それは当人の心情の吐露であったり、手記であったり、日記であったり、供述であったりする。全てが本人の主観的な主張なのである。
 そこには当然嘘が含まれる。素直にそうなんだと思いながら読んでいると、それが別の人の主観になったときに崩されていく。ああ、あれはその人の見栄や主観だったのかと気付かされる。人は主観的な生き物で、ある部分では自分の体面を保とうとするものだし、本人の価値観が他人と一緒ではない。俯瞰して全ての登場人物を客観的に描く小説や、一人称であってもその人がストーリーテラーとして間違いなく客観的な語り部として話を進めていくようなタイプの小説ではないのだ。ある人の真実は別の人にとっての嘘、ある人の重点は別の人にとって取るに足らないこと。主観とはこうあるべきという書かれ方である。それがうまい。

 当初、東電OL事件を基にしているとはいえ、実際の事件の方の犯人はまだ確定していないため、その犯人が誰であるかといった心情などを本書で書いたとしても、それはあくまで著者の空想の範囲を超えないのだから面白くないかもしれない、と読みながら考えていた。特にそういう題材に限って、終わり方が曖昧なものになりがちで、まさか本書もそんな感じで何となく終わるんじゃないかと危惧していたのだ。が、読み進めるうちに次第に面白いなと感じるようになった。

 世の中は主観でまわっている。そういうものだったなぁと現実を振り返る。だから、人の話を聞くときは一方の話だけを聞いても正確に判断することはできない。特にそれが何かの評価であるならば、それは多分に主観が入っている。その人の価値観は自分の価値観ではないのだから、最終的には自分が経験してみて、それでどう思うか、でしかない。そうやって自分は世の中と付き合っているよなぁと、そんなことを読みながら考えさせられた。本当の意味での生々しさというのだろうか、それを本書から感じ取り、そういう感覚で現実に引き戻されるというのは、あまりいい気分ではなかった。でもうまい。

 他人の人生がどうであるのかなど想像もつかない。それは現実でわかりきったことである。考えたってわからないし、聞いたところで都合の悪い部分まで隠さず話すわけがない。それがこの本にもある、ということだ。大抵の小説ならば全ての真実がわかってしまう。心のドロドロもわかってしまう。書かれていることが全て真実として扱われているからだ。それが、本書ではどうもそうではないらしい。じゃぁ真実は何だろうと思っても他人の主観から推測するしかないし、その他人の主観にしたってその人の都合で書いてあるだけかもしれないので信用ならない。
 私はうまい具合に煙に巻かれてしまった。

2010年2月17日水曜日

風が強く吹いている ― 三浦しをん

 わたしは漫画をよく読んでいた。しかし、漫画というのは単行本を買って読むもの、というイメージがあったため、漫画を読んでいるとどんどん部屋が狭くなっていってしまう。そこで、ある日、漫画を全部売ることにした。そして、その後漫画を読むのは雑誌だけにすることにした。雑誌は「捨ててもいい」というイメージがあるためだ。
 しかし、漫画雑誌も沢山ある。それらを一通り読んでみて、一番読みやすそうなヤングジャンプにした。

 そのヤングジャンプに連載されたのが「風が強く吹いている」だった。まぁまぁ面白いなぁと思っていたらそのうち別冊の月刊ヤングジャンプに連載が移ってしまい、結局終わりまで読むことはなかった。

 それからしばらくして付き合っている人が読んでいる本が、同じ題名の本であるのを知り、内容をかいつまんで話してみると、どうやら原作らしいということがわかり、借してもらい、読んでみることにした。

 読中・読後、終始一貫して青春、である。素人同然の10人の大学生がトレーニングを行い箱根駅伝を目指す、というストーリー。

 650ページに及ぶ長編であるが、読み辛い・読み進めにくい、と感じることはなく、とにかくスラスラと読めてしまう。箱根駅伝のルール、コースの状況、練習方法など、本書の執筆にあたりしっかりとした取材を行っていることを裏付ける解説に、十人十色の人間模様が絡んでくる。

 主人公の走(カケル)は、足の怪我により第一線を退いていた清瀬にスカウトされ、竹青荘に住むことになる。そして、ある日、そこに住む十人は、何のために格安のアパートに住まわせてもらっているのかを知ることとなる。
 話の始まりを始め、ご都合主義が散見される内容ではあるけれど、全体を通して感じる爽やかな空気がそれらを吹き消してくれる。
 十人にはそれぞれの抱える問題があり、それらの問題を仲間との係わり合いや走ることを通じて、それぞれの中で、ある者は折り合いをつけ、ある者は消化していく。

 走るという行為は自分との戦いであることが他のどんなスポーツよりも実感できる。わたしの会社の後輩が、最近太りすぎだと検診で言われ、走っていると言っていた。そこでまじまじと彼の顔を見てみたら、なるほど以前よりも痩せている。精悍というほうがいいのだろうか。何も道具を必要としないから、とりあえず走るようになった、と彼は言っていた。
 それくらい、走ることは簡単であり、そこにあるのはひたすらに走り続けるという行為だけである。必要なのは自分のやる気、それだけだ。もちろん何かの記録に挑戦するとか、あの人よりも速く走りたいという目標が存在することもあるかもしれない。それでも、簡単に始められることは簡単にやめられるということでもある。続けるという行為は自分の意思だけがなしうることで、誰かと協力してかちとるものでもなく、誰かのためにやることでもない。そしてひたすら孤独である。
 スポーツが好きな人には、団体で協力して勝利を得る球技などのスポーツを好む人と、マラソンなどひたすら自分との戦いをすることを好む人がいる。団体競技を好む友人は、マラソンのような単調で孤独な戦いを好まないと言った。
 ランニングは、球技のように知らないうちに時間が過ぎてしまうようなものではなく、声を発することもなく黙々とゴールを目指して一秒でも早くかけるだけ。まさに時間との戦いであり、体力との戦いでもある。
 球技であればいいショットを打てたとか、点数が入ったとか、相手の攻撃を凌いだというような「今のはよかった」と自覚できる瞬間があるが、走っている間に、何か爽快な気分を得られるような明確な「これ」といったものもない。
 じゃあなぜ走るのか。その疑問に対する答えが本書にちょっとだけ書かれているような気がした。

2010年2月16日火曜日

おこりんぼさびしんぼ ― 山城新伍

 以前、山城新伍が亡くなったという報道を聞いた。氏の出ていた映画などはあまり観た覚えもなく、テレビでもトーク番組で昔見たことがあるかな、という程度だった。
 ニュースによると、糖尿病を患ってから表舞台に出なくなり晩年は老人ホームで一人淋しく亡くなった、とのことだった。
 そんなニュースを聞いた会社の後輩のA君は、山城新伍に興味を持ち追悼の意も込めて本書を買ったのだそうだ。わたしは彼から「面白いから読んでみてください」と借りることになった。

 内容は、若山冨三郎、勝新太郎の二人のエピソードを中心に書いたもので、山城新伍氏が尊敬し、芸事の影響を受けたのはあとにも先にもこの二人だけと公言している。私は若山冨三郎という人物を知らなかったが、勝新太郎の兄だそうだ。
 勝新太郎といえば代表作、座頭市で有名だ。そして、パンツに麻薬を隠していて逮捕になったり、癌を患ったあとの退院会見で堂々とタバコを吸うなど、豪快で変わった人だなという印象があったのだが、どちらかというと優しい人柄だったようだ。
 山城新伍氏は、勝新太郎よりも若山冨三郎に惚れ込んでいたのかなという書きっぷりで、主に若山冨三郎のエピソードである。
 この若山冨三郎、昔ながらの頑固で恥ずかしがりやで男気があり、人情に厚いという、とてもわかりやすい性格だったようだ。そして、山城新伍氏は、彼につきそい、親分・子分のような関係で親しい関係を築いていたようだった。内容には、若山冨三郎や勝新太郎、中村玉緒などの面白い話が紹介される。本書から得られるものというのは特にないけれど、俳優や芸人は映像で見るよりも、自ら書いた文章を読んだ方がその人となりが何となく理解できる気がした。

 冒頭に書かれていた文章が印象的だった。日本の役者は年とともに忘れ去られてしまい、若手の人気俳優ばかりが第一線で活躍できる現状を憂い、妬み、そして同時にそれを諦めにも似た感情で納得しているかのようだった。
 役者・芸人は水商売である。それを体現したかのような栄枯盛衰を見せた人生を送った山城新伍氏に追悼の意を表す。

2010年2月15日月曜日

1984年 ― ジョージ・オーウェル

 仕事場の私の隣の席の図書館長ことK氏に、以前から借りていた「ロボット」「魯山人の食卓」「小僧の神様」を返した。K氏は「興味があった本は好きなときに持っていっていい」と言ってくれた。そして、次の瞬間「これを読んでみて」と「1984年」(ジョージ・オーウェル)を渡してくれた。

 「1984年」は、ハヤカワ文庫であった。ハヤカワ文庫といえば、SFやミステリ小説を昔よく読んでいたことを思い出した。K氏もそういう小説を読むのかと驚いたのだが、どうやら子供だましの本ではないらしい。

 ジョージ・オーウェルは、小説を通じて社会批判などを暗にする作家のようで、本書はソ連のスターリン政権下の圧政・管理社会を批判したものとして紹介された。本書は古典といわれるほどの有名な本らしいが、私は全く知らなかった。

 「1984年」の世界は、全ての情報を政府によって管理・コントロールされている。そこに暮らす人は、隠し事や逸脱行為(と政府が考えるもの)をすることを認められていない。プライバシーは殆ど存在せず、いたるところにテレスクリーンと呼ばれるモニタ兼スピーカーが設置されており、自分の家の中ですら行動は常に監視されている。

 少しでも望ましくない行動をしたとみなされたら、まず警告がテレスクリーンから流される。さらによくない行為と判断された場合は、警察に強制連行されてしまう。目に余る行動をとった人間はマインドコントロールされて政府の正当性を信じ込まされる。そして、数年間の社会復帰のあとふいに殺害されてしまう。こうすることで反乱分子を押さえつけるのではなく自主的に命を絶っているように見せかけるのである。普通に考えたらとんでもない世界である。

 しかし、ジョージ・オーウェルは、行き過ぎた言論弾圧は、こういった世界をつくることになるだろうと警告したのである。そこでは革新的な考えをする人は要注意人物としてマークされる。望ましいのは党(政府)のために財産も自分の時間も全てをなげうって尽くすことである。民衆は記録したり記憶したり考えたりしてはいけない。反乱の思想や手段を思いつかせないようにするためだ。
 このような統制下にあると人は、無気力・無感動になっていく。精力がない人間の行き着く先には何があるのだろうか。それこそただ無駄に生き・死んでいくだけの人生に、何の意味があるのだろうか。

 社会に出て忙しい毎日を送ると、会社と家の往復だけで、こんな人生に何の意味があるのだろうかと疑問に感じる瞬間がある。しかし、実はその状況は自分で変えることができる。ちょっとした隙間の時間を無駄にしない努力をしたり、転職して時間を確保したりすることは、本人の自由だ。結局文句を言うこと自体が甘えなのかもしれない。
本書を読むと、そんな文句ばかり言っていた自分を反省することにもなる。時間がないといいつつも実はあるのではないかと考えるのだ。

 「1984年」は、警告の意味を込めたものであろうから、結末もそれなりである。そこがエンタテイメント小説とは一線を画すもので、「うーむ」とやりきれない感じで終わりを迎えることになる。

 世の中にはアフリカのように無秩序に放置されていることが問題となっている国々がある一方、極度に管理された社会というのも大きな問題である。結局はバランスだと思う。これは子育てでも同じではないか。放任主義も行き過ぎれば無秩序を生むし、管理しすぎも本人の個性を奪いある日突然爆発するような危険性を生む。
 個人の権利を認め、その権利を侵害するものは罰するというルール作り。そのルールが皆にとって公平だと思えるものでなければならず、それでいて適度な競争社会で発展も促さなくてはならない。このバランスを保たせるために守らなければならないことは、それぞれの役割から逸脱してはならないということだ。そういったルールは現実の社会ではきちんと作られているにも拘らず、抜け道を探す輩がいて、うまい汁を吸う者が必ずといっていいほど現れてしまうというのは悲しい現実だ。

 選挙で選んだ政治家が結局は利権に踊らされて、不正のない社会を作るという目的は達成されない。それならば、不正は不正であるものとして仕方がないことだと割り切り、それでもなお国民全体の生活が潤い、不満を感じない社会作りというのはできないものなのだろうか。もし政治家が不正を働いていたとしても、生活が苦しくなければそれほど文句は言わないかもしれない。そんなことをふと考えた。

2010年2月14日日曜日

1Q84年 ― 村上春樹

 これまで村上春樹を読んだことはなかった。名前はもちろん知っているし、ベストセラーを何冊も書いているらしいことも聞いたことはある。が、昔は小説に興味がなかったので買っていなかったのだ。これは、村上春樹に限らない。

 1Q84は、ジョージ・オーウェルの「1984年」を何らかの形でモチーフにしているらしいことも小耳にはさんだ。村上春樹である上に、「1984年」になぞらえた題名をつけたときたら、ちょっとした話題にはなる。
 ある日、その本を付き合っている人が持っているので、借りることにした。このごろはジャンルを問わず本を読むのが好きになってきているので、話題作なら読んでみたい。

 目次で、各章の見出しをざっと読むと、「ビッグブラザー」という文字が目に入った。あ、やっぱり「1984年」に近い内容なんだ。と思った。
 しかし、読んでみると全く違うストーリーだった。青豆という変わった苗字の女性と、天吾という男性のストーリーが交互に進んで行き、やがて一つに交わる、という内容だ。
 登場人物がなにやら変わっていて、これはいわゆるアニメの“萌えキャラ”というやつではないのか・・・?と思ったりしていたのだけど、それにもちゃんと理由があった。
 一風変わった世界観で、現実と非現実が交わっていき、その中におぞましい事件が絡んでくる、といった内容。
 これが村上春樹ワールドなのかと思ったら、貸してくれた彼女にしてみれば、「これまでの著作にしてみたら、最も現実的な話になっている」とのことだった。今までの著作が気になった。どれだけ飛ばした内容なのだろうか。

 文章はとても読みやすいし、ストーリー展開も面白い。読み始めたら途中でやめるのがためらわれる。あと1章だけ読んだらほかの事をしよう、と思っても、その1章が30ページ程度なので、もう1章くらい・・・と、つい読んでしまう。ストーリーの続きが気になるのだ。
 はなから飛ばしたストーリーの青豆と、徐々に巻き込まれていく天吾の日常が出会ったとき、起こるのは共闘か敵対か。中学生程度でも普通に楽しめる内容だし、むしろ子供向けか?と思ってしまうようなストーリーに、やけに現実的な事件と性的描写が絡んでくる。大人向けのエッセンスを子供向けの展開に盛り込んだというか、アダルトな雰囲気を誰にでもわかりやすく描いたというか、この絶妙なバランス感覚が、村上春樹の真骨頂なのだろうか。
 今後、村上春樹のほかの本を読んで、そこら辺を考えてみたい。

2010年2月13日土曜日

顧客との連絡用サービスを検討する!(3)囲いこみに使える掲示板とは

顧客の囲い込みに掲示板を利用するのであれば、仕様として最低限、以下の3点は必須である。
1.ログがすべて保存される
2.ユーザ登録しなければ利用できない
3.プログラム単体ではなく、サーバごとレンタルできる
以上の、1・2は、顧客を囲い込むときに必須の機能であり、3は、技術上必要な要件である。

1.ログがすべて保存される
ログの保存容量に制限がある場合、200件を超えたら古いものから削除される、といった仕様になる。
しかし、ログの蓄積こそが掲示板における財産なので、これが削除されるものに利用価値はない。
よって、過去ログがすべて保存されるものでなければならない。

2.ユーザ登録しなければ利用できない
会員制掲示板で最も多いのが、共通のIDとパスワードでログインさせるものである。
この場合、誰が書き込みしているかは、自己申告によるので、なりすましや匿名での書き込みが可能になる。成り済ましや匿名での書き込みが可能であれば、いい加減な内容や、宣伝、誹謗中傷を書き込むことが可能になってしまう。
また、IDとパスワードが漏れてしまえば、誰でも閲覧できることになってしまい、他社の親派に漏れてしまえば、囲い込みどころか、重要な情報が敵対する他社に知られてしまうことになる。
よって、一人一人個別のIDとパスワードを発行し、誰が書き込んでいるのかを、メンバー全員が把握できるようにすることで、参加者が発言に責任を持ち、かつ情報漏えいを最小限に食い止めることができるようになる。

なお、同様の理由で、利用者本人が自由に会員登録できる掲示板は使えない。会員登録は、あくまでホストであるこちらが認めた人のみ行えるようなものでなければならない。

3.プログラム単体ではなくサーバごとレンタルできる
掲示板サービスには、プログラムを自社サーバに設置するタイプと、掲示板を含めたサーバごとレンタルするサービスの2種類がある。
前者は、カスタマイズが自由にできるメリットがあるが、反面、文字化け対策がされていないなど、利用には技術的な知識を要する場合が多い。知識がなかったり、一々コードを解析するのが面倒であれば、サーバごとレンタルするサービスを利用する方がよい。

2010年2月12日金曜日

小さなことにくよくよするな! しょせん、すべては小さなこと ― リチャード・カールソン

 いわゆる自己啓発本である。こういった類の本を読むことは昔はまずなかった。何も悩みがないとき、順調に物事が進んでいるときというのは、そういうものだ。頼る必要がないのだから。しかし、あるとき、挫折を味わったことをきっかけに、ビジネス書の類にその解決策を求めようと思い、読み漁るようになった。

 わたしの挫折は、同じ部署に配属された2名の同僚であった。
 彼らは大学を卒業と共に、わたしの部署に「1年だけ」という約束のもと、配属されてきた。本人達が望んだのも別の部署なので、そもそもやる気がないという感じは伝わってきたのだが、それよりも酷かったのは、仕事に対する態度である。社会人として、基本がなっていなかった。もちろん、社会人なりたてなんだから、基本ができていないのは仕方がないと思うかもしれない。
 しかし、そんなレベルではなかった。まず、遅刻は当たり前、無断欠勤もする。仕事のアドバイスをしてやれば、「そんなことはわかってます」で、話を聞かない。でもできていないので、やっぱりアドバイスをしなければならない。でも、聞く耳を持たない・・・の繰り返しだった。

 そのとき、かなり忙しい時期であり、しかも上司が別の部署との兼任だったので、こちらの仕事を全く見れない状態になっていた。
 技術的な知識がなければできない仕事であったので、まずその二人に勉強してもらわなければならない。そして、すぐに学んだことを仕事に生かしてもらわなければならない、というかなり無理な要求ではあったと思う、しかし、そもそも興味がない部署への配属。その部署の仕事にも興味などもっているわけがなかったのだ。
 やがて、彼らがどうやっても覚える気がないようだ、と結論付けてしまったわたしは、彼らの面倒を見ることを放棄し、納期が迫っている仕事を一人で抱えてやるようになった。
 結果、彼らは何も仕事をしなくなり、それどころかばれていないと思ったのか、自分のブログは更新するわ、メール友達を作ろうとするわ、まさに無法地帯となってしまった。

 ・・・それから1年後、彼らは別の部署へと異動していった。彼らは、配属先の部署でも同じような問題を起こして目をつけられていた。それなのに、誰もきちんと注意しないようだった。注意しても反論されてしまうので、そのうちに諦めてしまうのだ。これはわたしがきちんとしつけなかったことに起因しているかもしれない。
 しかし、情けないことに、わたしは彼らがきちんとしないのは、わたしの力量が他の人に比べて低いからではなく、配属先の部署の人でさえコントロールできないではないか、ということに一種の安堵感さえ覚えていた。そうやって自分は悪くないと思い込もうとした。

 だが、自分の力不足は身に沁みてわかっていた。彼らがいなくなってから、わたしに足りないものはなんだったのかと考えた。リーダーシップとはなんだろうか。コーチングという言葉があるのか。
 そして、ビジネス書というジャンルを文字通り読み漁るようになった。

 そうするうちに、コーチング以外にも手を広げ、自己啓発、マネジメント、仕事術、経済、投資、世界情勢、マーケティング、小説・・・まさに何でも読むようになった。
 そんな中で手にとったのが「小さなことにくよくよするな!」だった。発売当初はベストセラーになるほどの人気だったらしい。道理で古本屋で大量に見かける。内容はごく簡単。表題のとおりである。

 小さなことにくよくよしない。気にしない。そうすれば、もっと心が豊かになり、周りからも好かれる人になる。

 そういう話だった。自己啓発本を読んでいつも思うのが、それを実行できるのならば、こんな本を読んではいない、ということだ。やりたいけどできない、そういうことだってあるのだ。
 しかし、本書は、本当に小さなことに絞り、そういうちょっとしたことに変化をつけていってみよう、と提案している。「それは無理だ」と思うことはやらなくてもいいと思う。
 本書には、幾つかの「やってみよう」ということが書いてある。一項目くらいなら、トイレに入っている間に簡単に読めてしまう。だから、トイレに置いておいて、朝会社に行く前にちょっと読み、その読んだことを実践してみる、というのでもいいかもしれない。
 ただし、本書を読んだからといって金銭的に裕福になるわけではない。現状は何も変わっていないかもしれないけど、心の持ちようが変わるので、幸せになる・・・という何だか宗教じみたものが、その結論として導き出されてしまう。けど、心の焦りとか、平安とかいうのは、そういう気の持ちよう、という問題なのかもしれない。

 友人を沢山つくりネットワークを広げられるようになった人は、それまで感じていた、このまま生活していけるのだろうか、という漠然とした不安感がなくなる、という話を聞いたことがある。
 結局は、一人で鬱屈としているよりも、みんなで楽しくやれば、不安が消し飛ぶということだろうか。そして、人と楽しく仲良くやっていくためには、小さなことにくよくよしないことなのだ。

2010年2月11日木曜日

顧客との連絡用ウェブサービスを検討する!(2)せっかく掲示板

有料の掲示板サービスがいいという場合には、幾つか存在するが、
「一人一人IDとパスワードを発行できる」
という条件を満たすものですぐに見つかる掲示板が「せっかく掲示板」である。

このサービスの、「有料版アクティブモードビジネスタイプ」というものを利用すると、掲示板の非公開化(会員専用)や、投稿のメール配信(メーリングリスト)などの機能がついてくる。
大きな機能・仕様を列挙すると、

・年間料金5,040円
・登録方法は、管理者が登録するのと、利用者が登録するのと、2通り選べる
・メーリングリスト機能(投稿した記事を全員にメールで配信)
・非公開化
・テキスト以外でアップできるファイルは、画像のみ
・広告非表示
・サイト運営会社のロゴ非表示
・ログは、10,000件まで保存

などである。
機能はGoogleグループに若干劣るが、ほぼ同程度と考えられる。
有料がいい、という場合には「せっかく掲示板」がいいかもしれない。

2010年2月10日水曜日

jQueryリファレンス(2)条件分岐

jQueryにおける基本の条件分岐

$('#id名').hover(
function(){
$(this).css('color','#ffffff');
},
function(){
$(this).css('color','#000000');
}
);

#id名にマウスカーソルがのったとき、文字を白にして、のっていないときは黒にする。

2010年2月9日火曜日

jQueryリファレンス(1)

要素の指定
$("要素名")

idの指定
$("#id名")

classの指定
$(".class名")

クリック判定
$("#id名").click(function(){ ~ })

マウスオーバー判定
$("#id名").mouseover(function(){ ~ })

属性の取得
$(this).attr("属性名")

テキストを取得
$(this).text()

要素数を取得
$("#id名 td").index(this)
id名をもつ要素内のtdの数を数える。

CSSの操作
$("要素名").css("プロパティ","値")
要素名のCSSのプロパティを値に変更する。

複数の場合
$("要素名").css({"プロパティ":"値","プロパティ":"値"})

特定のクラス名のテーブル要素
$('table[class="クラス名"]')
class名がクラス名のtable要素。

変数名に合致したサマリー属性を持つテーブル要素
$('table[summary="'+変数名+'"]')
summary属性が変数名のtable要素。

idの先頭が値に合致するdiv要素
$('div[id^="値"]')

先頭が値に合致するidをもつ要素
$('[id^="値"]')

2010年2月8日月曜日

ロボット ― カレル・チャペック

 私の仕事場の隣人、K氏が貸してくれる本のジャンルは様々なものがある。K氏の興味の広さには関心してしまう。技術系の編集部に属することからロボットの原点である本書「ロボット」を買ったらしい。ロボットの話が出たときに「ロボットという名前はこの作者が生み出したんだ」と教えてくれた。

 「ロボット」という言葉は、本書の著者であるカレル・チャペックというチェコスロバキアの作家が命名した。厳密にはその兄が考えたらしい。ロボットを開発した人たちがそのロボットに仕事をさせて、自分達は何もしなくてもいい世界を作ろうとしたけど、ロボットの反乱にあってしまう、というストーリーである。
 戯曲なので、登場人物のセリフで進行していく。ページ数も字数も少ないのでサクサク読めてしまう。

 本書におけるロボットは、私達が知っているロボットとは少し違う。いわゆる金属製のパーツを組み合わせて作られているわけではなく、血や筋肉といった組織自体を人工的に作ってできているようだ。人造人間である。だから、殆ど構造は人間と変わらない。しかし、唯一の違いは心を持っていないことである。
 従って、本書の中のロボットは、心がないことを除けばほぼ人間である。フランケンシュタインとかサイボーグとか、そんなイメージである。だから、怪我をすれば血を流す。しかし、痛みを感じることはない。そんな彼らがやがて自分達が人間よりも優れているということを理解しだし、反乱を企てる“リーダー”が現れたことで世界は一変してしまう。

 バベルの塔と同じく、神の領域を侵そうとした人間には罰が下るという、聖書をモチーフにしたストーリーのようだ。最終的には聖書の中の一部になぞらえているところからも、命というテーマを扱ったことを神の領域として表現したかったのだろうか。
 この本から感じ取れることは、楽をしようとするとしっぺ返しを食らう、というような単純なものではないだろう。

 こういう古典を読んで思うことは、どこかで読んだストーリーだなということである。しかし、どこかで読んだストーリーこそ、本書のストーリーを拝借して書かれているのであり、先にそれを読んでしまっただけのことだ。あ、このストーリー知っているなと思うのであれば、それだけこの本がすごいということの証明になる。

2010年2月7日日曜日

魯山人の食卓 ― 北大路魯山人

 会社の私の隣の席にK氏という人がいる。その人は結構な読書家で、「飯の種」などといって、デスクの上に仕事とはあまり関係のない本がどっさりと積んである。酒を飲むと面倒くさいけど、人とのコミュニケーションが好きな人懐こい人で、仕事の合間によく雑談をする。

 先日も、雑談をしていると回転寿司の話になった。そして、「寿司というものはそもそも立ち食いで、酒ではなくお茶で食べるものだ、ということを言っている美食家がいる」と言って、「魯山人の食卓」を貸してくれた。

 北大路魯山人という名前は知っているけど、どんな人なのか、何をしている人なのかは知らなかった。本を書いているくらいだから大方、小説家だろうと思いながら読んでみた。どうやら芸術家らしかった。

 しかし、食に関してかなりうるさい人のようで、本書の内容はまさに贅沢な美食をするための指南書とでもいおうか。「美味しんぼ」の海原雄山のモデルになった人らしい。

 本書では、寿司の話に始まり、どじょうやら雑炊やら、鍋、お茶漬け、と料理名だけ聞けば庶民的な食事を取り上げている。でも、それらがいちいちこだわっているのだ。
 曰く、食材がよくなくてはそもそもダメ。調理でどうにでもなるものではないとのこと。食材とは、寿司でいうならばネタはもちろん、米、醤油、海苔、生姜、とにかく食べるもの全てが一流の食材を使っていなければダメなのだ。そして、それにプラスしてそれをつくる職人の腕がなければならない。それだけではない。さらにつくったものを盛る器が一流でなくては味が落ちるというのだ。
 これら全ての要素が揃って初めて魯山人は「うまい」というようだ。

 読む限りでは、一々大げさだし、自分には到底できない贅をこらしている、という感想を抱いてしまう。しかし、それほどまでに細かな違いにこだわることができるというのは、そもそも舌が肥えていなければできないことだし、精神的にも繊細な人でなければ多少の違いで文句をいったりできない。本当にそんなもので味が変わるものなのかなと感心してしまう。

 魯山人はいう。食にこだわることができるようになるのは、40代後半からだと。それまでは若すぎて、腹が減れば何を食べてもドカ食いできるし、うまいと感じてしまうので食の機微を感じることができないらしい。私が本書に共感できないのは仕方のないことなのかもしれない。親父なら共感できるのだろうか。でも、親父は私より大食いだ。

 お茶漬けの項はうまそうだった。昆布の佃煮の作り方やお茶の注ぎ方など、想像力をかきたてられた。つくってみようかと思い、材料にはさすがにこだわることはできないけど、昆布の佃煮を作ってみた。醤油と酒とみりんでにただけだったけど、とってもうまかった。

2010年2月6日土曜日

小僧の神様 ― 志賀直哉

 私の仕事場の隣の席にいるK氏は、かなりの読書家で、雑談しているときに話の流れによってはその話に関する本を貸してくれることがある。

 以前借りた「魯山人の食卓」は、K氏が親子で回転寿司を食べに行ったときの話をしてくれたときに借りた物で、さらに、回転寿司といえば有名なチェーン店「小僧寿司」の由来となったのは、この話だということで、「小僧の神様」(志賀直哉)を貸してくれた。

 あまり小説や日本文学には興味がないのだが、薄い本であるため読んでみるきになった。文学に疎い私でも志賀直哉という名前は聞いたことがある。文書のシンプルかつ美しいことで有名な志賀直哉は、正しい日本語を学ぶことができるということでも知られている。本書の表題である小僧の神様をもじって、「小説の神様」と呼ばれていたりする。

 志賀直哉について調べてみた。志賀直哉は、白樺派というグループに属していた。白樺派とは、雑誌「白樺」に寄稿している人のグループのことを称した名前だ。白樺派は、主に学習院大学の学生で構成されており、裕福な家の出が多い。私小説のような話を書く人が多く、書く話の傾向が前向きであることから、世間知らずの金持ちのボンボンが考えそうな甘い内容、と揶揄されることもあるようだ。
 余計な描写が極力省かれているという志賀直哉の文体は、子どもに読ませるのに適しているらしいが、はっきりいって私小説は子どもにはつまらないのではないかと思う。

 私小説についても調べてみた。
 私小説とは、一人称の語りによる話を主とし、著者の身の周りで起こったことを題材としている。そのため、非常に現実的で生生しい半面、オチがなく面白みに欠ける内容になりがちである。ゆえに、私小説はつまらない、と嫌う人も多いとか。

 「小僧の神様」は、短編集で、一つの話は長くないのでサクサク読み進められる。主に一人称の話が多く、実話なのかどうなのかいまいちわからないうちに話が展開して終結を迎える。あとがきを読むと、志賀直哉自身が各作品について解説をしており、なるほど私小説なのだなということがわかる。

 表題作「小僧の神様」では、一人称は使われていないが、どうやらAという人物が著者本人ととらえる考え方が一般的のようだ。作中でAは、お金持ちだけどちょっと気が小さいという設定の人物で、小僧はその人を神様と崇めるようになる。
 この話の変わっているところは、オチに辿り着く前に著者自身の手で「この話はここまでで終わりとする」と唐突に終わりを告げられることだ。
 「実は、このあと~と書こうと思ったのだが残酷な気がしたのでやめておく」というのである。残酷という意味が当初はわからなかったけど、ここは何をもってして残酷なのかを考えることが大事なのだろう。著者が書こうと思ったとおりに結末を書いた場合、それなりにオチはついたけど、陳腐な話になっていたかもしれないので、これはこれでいいのかもしれない。受ける衝撃はこちらのほうが大きい。

 このような感じで、他にも収録されている話は、それぞれ、何となく終わりを迎える話や、主人公の心情などを汲み取らせるような話になっており、それを読み手が考えながら読むのがいいのだろうなと思った。まさに教科書に載せたい話、というところだろうか。

2010年2月5日金曜日

JQueryで色を取得する際の注意

JQueryで、Background-colorを取得して、色によって動作を変える、というスクリプトを組むとき、返ってくる値は、RGB形式になっている。
これは、仕様とのことで、#CCCCCCのような値で返すことは特別なスクリプトを利用しない限り無理のようだ。

しかし、返ってくるRGB形式ですら、InternetExplorerとGoogleChrome、Firefoxでは若干違う。

InternetExplorer8の場合は、RGBの値は、rgb(xxx,xxx,xxx)と、数値と数値の間にスペースを入れずにかかなければならない。例えば背景色が白を判別する場合は、以下のようにする。

if( $("#id").css("background-color") == "rgb(255,255,255)"){ ~ }

しかし、GoogleChromeとFirefoxの場合は、rgb(xxx, xxx, xxx)と、2番目と3番目の数値の前にスペースを1つ入れなければならない。

if( $("#id").css("background-color") == "rgb(255, 255, 255)"){ ~ }

どちらか一方では、どちらかのブラウザが値を判別できず動作しなくなる。
だから、上記のような条件を書く場合は、

if( $("#id").css("background-color") == "rgb(255,255,255)" || $("#id").css("background-color") == "rgb(255, 255, 255)")){ ~ }

と書かなければならない。

追記

Operaの場合、色の値はRGBの16進数で取得するため、上記に追加して、

if( $("#id").css("background-color") == "rgb(255,255,255)" || $("#id").css("background-color") == "rgb(255, 255, 255)") || $("#id").css("background-color") == "#ffffff"){ ~ }

と書く。これで、IE、FireFox、Safari、GoogleChrome、Operaで動作する。