2010年2月7日日曜日

魯山人の食卓 ― 北大路魯山人

 会社の私の隣の席にK氏という人がいる。その人は結構な読書家で、「飯の種」などといって、デスクの上に仕事とはあまり関係のない本がどっさりと積んである。酒を飲むと面倒くさいけど、人とのコミュニケーションが好きな人懐こい人で、仕事の合間によく雑談をする。

 先日も、雑談をしていると回転寿司の話になった。そして、「寿司というものはそもそも立ち食いで、酒ではなくお茶で食べるものだ、ということを言っている美食家がいる」と言って、「魯山人の食卓」を貸してくれた。

 北大路魯山人という名前は知っているけど、どんな人なのか、何をしている人なのかは知らなかった。本を書いているくらいだから大方、小説家だろうと思いながら読んでみた。どうやら芸術家らしかった。

 しかし、食に関してかなりうるさい人のようで、本書の内容はまさに贅沢な美食をするための指南書とでもいおうか。「美味しんぼ」の海原雄山のモデルになった人らしい。

 本書では、寿司の話に始まり、どじょうやら雑炊やら、鍋、お茶漬け、と料理名だけ聞けば庶民的な食事を取り上げている。でも、それらがいちいちこだわっているのだ。
 曰く、食材がよくなくてはそもそもダメ。調理でどうにでもなるものではないとのこと。食材とは、寿司でいうならばネタはもちろん、米、醤油、海苔、生姜、とにかく食べるもの全てが一流の食材を使っていなければダメなのだ。そして、それにプラスしてそれをつくる職人の腕がなければならない。それだけではない。さらにつくったものを盛る器が一流でなくては味が落ちるというのだ。
 これら全ての要素が揃って初めて魯山人は「うまい」というようだ。

 読む限りでは、一々大げさだし、自分には到底できない贅をこらしている、という感想を抱いてしまう。しかし、それほどまでに細かな違いにこだわることができるというのは、そもそも舌が肥えていなければできないことだし、精神的にも繊細な人でなければ多少の違いで文句をいったりできない。本当にそんなもので味が変わるものなのかなと感心してしまう。

 魯山人はいう。食にこだわることができるようになるのは、40代後半からだと。それまでは若すぎて、腹が減れば何を食べてもドカ食いできるし、うまいと感じてしまうので食の機微を感じることができないらしい。私が本書に共感できないのは仕方のないことなのかもしれない。親父なら共感できるのだろうか。でも、親父は私より大食いだ。

 お茶漬けの項はうまそうだった。昆布の佃煮の作り方やお茶の注ぎ方など、想像力をかきたてられた。つくってみようかと思い、材料にはさすがにこだわることはできないけど、昆布の佃煮を作ってみた。醤油と酒とみりんでにただけだったけど、とってもうまかった。

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