2010年2月18日木曜日

グロテスク ― 桐野夏生

 2003年刊行の桐野夏生の小説。本書は、実際にあった「東電OL事件」をモチーフにしているという。本書を読む前にどのような本なのかを調べてみたところ、そういった事柄が書かれていた。
 しかし、私はその事件について全く知らなかった。1990年代の事件らしい。東京電力で管理職を務める慶応大学卒のエリート女子社員が、アパートの一室で絞殺死体で発見されたことが発端で、調べていくうちに女子社員が夜は娼婦として街頭に立ち客をとっていたということが判明。当時、センセーショナルな内容で様々なメディアに取り上げられ、あることないこと書き立てられ被害者当人のプライバシーは侵害され、家族にも多大な迷惑がかかったらしい。それを知らなかったのは、当時はニュースや新聞を読まなかったからかもしれない。ちょっと情けないことである。

 さて、その東電OL事件をモチーフにした本作品である。ところが読み進めていくと、その「東電OL」は本書のテーマのメインでありそうでなさそうだ、という曖昧な位置づけであることがわかる。本書でクローズアップされるべきは、心情の書き分けである。

 本書には4人の主要な人物が登場する。

 若干頭はいいがずば抜けていいわけではなく美貌の妹と比較され陰を歩いてきた主人公「わたし」、絶世の美女で根っからの娼婦「ユリコ」、自分の価値を頭のよさと考えてそのことだけにとらわれる「和恵」、ユリコと和恵を殺害したとして逮捕される出稼ぎ外国人「チャン」。
 4人の話が交互に現れるのだけど、それは当人の心情の吐露であったり、手記であったり、日記であったり、供述であったりする。全てが本人の主観的な主張なのである。
 そこには当然嘘が含まれる。素直にそうなんだと思いながら読んでいると、それが別の人の主観になったときに崩されていく。ああ、あれはその人の見栄や主観だったのかと気付かされる。人は主観的な生き物で、ある部分では自分の体面を保とうとするものだし、本人の価値観が他人と一緒ではない。俯瞰して全ての登場人物を客観的に描く小説や、一人称であってもその人がストーリーテラーとして間違いなく客観的な語り部として話を進めていくようなタイプの小説ではないのだ。ある人の真実は別の人にとっての嘘、ある人の重点は別の人にとって取るに足らないこと。主観とはこうあるべきという書かれ方である。それがうまい。

 当初、東電OL事件を基にしているとはいえ、実際の事件の方の犯人はまだ確定していないため、その犯人が誰であるかといった心情などを本書で書いたとしても、それはあくまで著者の空想の範囲を超えないのだから面白くないかもしれない、と読みながら考えていた。特にそういう題材に限って、終わり方が曖昧なものになりがちで、まさか本書もそんな感じで何となく終わるんじゃないかと危惧していたのだ。が、読み進めるうちに次第に面白いなと感じるようになった。

 世の中は主観でまわっている。そういうものだったなぁと現実を振り返る。だから、人の話を聞くときは一方の話だけを聞いても正確に判断することはできない。特にそれが何かの評価であるならば、それは多分に主観が入っている。その人の価値観は自分の価値観ではないのだから、最終的には自分が経験してみて、それでどう思うか、でしかない。そうやって自分は世の中と付き合っているよなぁと、そんなことを読みながら考えさせられた。本当の意味での生々しさというのだろうか、それを本書から感じ取り、そういう感覚で現実に引き戻されるというのは、あまりいい気分ではなかった。でもうまい。

 他人の人生がどうであるのかなど想像もつかない。それは現実でわかりきったことである。考えたってわからないし、聞いたところで都合の悪い部分まで隠さず話すわけがない。それがこの本にもある、ということだ。大抵の小説ならば全ての真実がわかってしまう。心のドロドロもわかってしまう。書かれていることが全て真実として扱われているからだ。それが、本書ではどうもそうではないらしい。じゃぁ真実は何だろうと思っても他人の主観から推測するしかないし、その他人の主観にしたってその人の都合で書いてあるだけかもしれないので信用ならない。
 私はうまい具合に煙に巻かれてしまった。

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