2011年4月17日日曜日

陽気なギャングの日常と襲撃 ― 伊坂幸太郎

 以前読んだ、「陽気なギャングが地球を回す」の続刊である。ストーリー自体は本書1冊の完結だが、続刊なので登場人物のプロットの説明は詳しくない。だから、初めて読むならば前回から読んだ方がわかりやすい。

荒くて緻密、伊坂ワールドとはこれだ

 やはり、この巻も読みやすい。作風は当たり前ながら前作を踏襲した形で、とにかくスピーディー。伏線があらゆるところに貼られており、話が進行するうちにそれらがすべてつながってくるしかけになっている。伏線の自己主張は相も変わらず強く、「わたしは後の話でつながります」とアピールしてくる。それが、人によっては読みやすいと感じるし、わかりやすすぎてつまらないとか、あざとい、という人もいるかもしれない。伊坂幸太郎にはまる人は、あらゆる話に無駄のない、緻密なストーリー構成に惹かれるのだろう。しかも、その緻密さがスピーディーで時に荒っぽいストーリーの流れの中で、蜘蛛の巣のように張り巡らされている様子が徐々に明らかになってくるのが、何とも言えないのではないだろうか。

文章だけで3次元化?伊坂ワールドの真骨頂

 わたしのパートナーは伊坂は映画を意識して書いている、最初から映画化狙いではないのか、と言っていた。わたしはそれに加え、漫画の要素が入っている気がした。つまりこの本は、若い人向けだ。本離れをしている若い人を、本に呼び戻すべくして書かれた本といってもいいかもしれない。

 映画化狙いで書くのもアリだと思う。しかし、勝手な想像でいうと、映画化を見越したのではなく、映画のような作風にしたら面白い、読みやすいに違いない、という発想で、映画のようなスピーディーな展開をあえて狙ったのではないかと思う。
 例えば、松本太陽の漫画に「ピンポン」という卓球漫画がある。この漫画は、漫画を読んでいるのに、映画を見ているようなストーリー展開、コマ割、セリフ、描写・・・とにかく息を付かせない。緩急の付け方がうまく、全5巻で結構ページ数はあるけれど、あっという間に読めてしまう。映画を漫画で描いたような本であった。後に映画化されたが、そちらの方は必要なかったと思う。原作が既に映画のようなのだから。
 伊坂幸太郎の本も映画化されたが、それは観ていないから何ともいえない。ピンポンのように、映画化する必要はなかったとは断言できない。なぜなら、ピンポンは漫画なので、既に絵が描かれており、映像化するまでもなく、イメージ像が頭の中でできあがってしまっていた。しかも、そのイメージ像は、作者が表現したいイメージそのものである。
 それに対し、小説は文章だけなので、頭の中に自分でイメージを浮かべても、それが作者が表現したかったイメージかどうかはわからない。映画化して映像を観たときに、ああ、この場面はこういう表現になるのかということを味わう楽しさがある。ただし、その映像にしたって、作者が監督でもしていない限り、作者の頭の中を映像化したとは言えないのだが。
 しかし、これだけは言える。伊坂の本には、映画のような見易さがある。読者を飽きさせない展開や仕掛がある。ただ紙の上に印刷されている黒いインクを目で追っているだけなのに、頭の中で勝手に3次元化されるのである。

アーティストか職人か、それともプロか

 伊坂の本を2冊読んで、この作家はこういった作風なのだなと理解する。どうやらこれまでの本も同じような路線で書かれているらしい。小説家にも作風というものがあり、それはどんな小説を書いたとしても貫かれているのが普通であろう。読者は、それを期待して、その作家の本を読むのである。コロコロと作風を変えられてしまっては堪らない。そういう意味では、作家はアーティストである。
 贔屓にしているバンドがあるとする。そのバンドが次に出すアルバムに、ファンが求めるものは何であろうか。それは、前作と同じ作風もしくは、延長線上にある作品である。ガラッとスタイルを変えてしまうことは、例えそれがすばらしいできであっても、好まれない。ジャズをやっていたのにハードロックになってしまっては、期待はずれといわざるを得ない。そのファンは失望していなくなることになる。しかし、すばらしいできであれば、新たなファンを獲得するだろう。そして、歴史を振り返って後から、「このときに作風をガラッと変えた」と評価されるのだ。
 しかし、アーティストというのは、自分を表現することが第一義の目的である。売れなければ食っていけない、という意識の元、やりたいことを抑えつけて、求められていることだけをやり続けたとしたら、それは既に商売人であってアーティストではない。音楽において言うならば、商売人になってしまっている人は多く存在する。人に曲を書いてもらうなんていうのは、アーティストとはいえない。自己表現ですらないではないか。
 作家も駆け出しのころから、人気が上がり始めたときぐらいの頃は、まさにアーティストであろう。自分のやりたいことを、勝手に回りが認めてくれている状態である。ただ好きなことをやっているだけで、おまんまが食べられるのだ。それが、売れっ子と言われて、次回作を期待されるようになるにつれ、前作を超えなければならない、下手な書評を付けられないようにしなければならない、というプレッシャーが増えていき、本来やりたいこともできずに無難にまとめたり、スランプに陥ったりするようになることがある。

 いつの世も、どんなジャンルでもこのようなことは起こりうる。アーティストが自分の作品で食べようとすれば、逃れられないジレンマである。そのプレッシャーや期待に押し潰されずに、自分のやりたいことをやり続けることができれば、それこそがアーティストである。
 あとがきを読むと、伊坂は、作品を発表するまでに、何度も何度も納得がいくまで書き直すそうである。また、文庫本化する際にも、さらに手直しを入れるようだ。だから、雑誌に連載していたものとは若干ストーリーが変わっているらしい。まわりの評価云々ではなく、自分の中でゴーサインが出るまで磨き上げるという拘りは、アーティストでもあり、職人でもあり、そして、商業の世界でいえばプロである。
 アーティストも職人もプロも、呼ばれ方や定義は違えど、その意味するところは実は近いのではないだろうか。伊坂の本を読んで、そんなことを考えた。

2011年4月10日日曜日

“初回は顔を売るだけ”の営業

 先日会った営業マンは、これまでのうちでもかなりすごかった。もちろん、いい意味である。
 大手の営業マンだったというのもあるかもしれない。そして、平社員ではなく、管理職クラスであった。管理職といっても、おそらく係長もしくは課長といったところだろう。横文字の役職だったので、どの程度の管理職なのかは定かではない。

よい営業マンは武装をしない

 その営業マンは電話営業でアポをとってきた。大抵の電話営業は断るのだが、断らなかった理由は、物腰がソフトだったからだ。そして、自然体だった。物腰がソフトな話し方でも、自然体でない人は非常に多い。特に20~30代の男性に多いと思う。自然体かそうでないかは、わたしの感じ方次第なので、これを伝えるのは非常に難しい。感覚的な問題だから、人によっては違う見方をするだろう。しかしわたしにはわかる、なんていう大それたことを言うつもりはない。そもそも人を見る目というのは、感覚的なものである。感覚は実践を伴うことで研ぎ澄まされていく。だから、感覚を鍛えたいのであれば、多くの人に会うしかない。そして、観察することだ。観察するだけではなく、結果として、良い気分になったのか、嫌な気分になったのかを、同じ人に対して、一度ではなく何度でも判断することである。この人のこういう面は好きだ、いいと思う、しかし、この面はいただけない。総合的に良い点が嫌な点を上回るか、下回るかで決めるのである。あくまで冷静でありながら感情的に決めるのである。矛盾しているようだけど、感覚というのはそういうものである。

 プライベートで人と会う場合と違い、仕事で会うのであれば、相手は何らかの手段で本来の自分を偽っていることが多い。プライベートであっても本来の自分を偽ることはあるが、仕事での偽り方はプライベートのそれとはかなり違う。武装といってもいい。この武装は、営業に向いていない人ほどしていると思う。そして、大抵の武装は見破れる。そもそも、相手は契約を取ろうとしてきているのである。それがなくては会いにこない。しかし、契約を取るために武装をして自分を偽る必要はない。だから、いい営業マンは特に武装をしていない。いい営業マンは武装ではなく、心がけをしている。相手を不快にさせない見た目、振る舞い、相手の疑問に答えられるだけの知識。相手を困らせない営業スタイルである。

ほぼ雑談、初回から飛ばさない営業

 前日、その営業マンは確認の電話をかけてきた。明日~時に会うことになっているが、本当に構わないか、である。そして、当時はもちろん時間通りに来た。
 まずは日常の話でつい最近あったことを話す。それも、独りよがりの話ではなく、お互いに関係のある話である。わたしはこうだったけど、あなたはどうでしたか?というのがいい。そして、話はこちらの会社について感じた疑問点に移る。これはこちらの会社に興味があり、ある程度は調べてきているというアピールにつながる。しかし、それをそれと思わせずに、あくまで自分が興味が沸いたので、というのがいい。昔そちらの製品を使ったことがあったり、自分の身内が使っている、などである。

 その営業マンが凄かったのは、その雑談から、絶妙な感じで自分の製品のアピールにつなげたことである。とはいえ、そういうつなげ方はいやらしさが伴う。だからその営業マンは、「だからというわけではないですが」というような感じで、自分の製品紹介につなげることを、申し訳なさそうに弁解した。それでいて、きちんと製品紹介は行った。こちらも、それまでの雑談でほぐれてきていて、そろそろ本題を、といった空気ができあがっていた。紹介してもらった製品は、こちらではまだ必要ではないものであった。それは話をしているうちに感じとったのであろう。あまり強く営業をかけてこなかった。これが、ガツガツしている営業マンであれば、何とかして次につなげようとしてくるものである。

日報に書くための営業をしない

 結局この営業マンと話を1時間ほどしたけれども、営業をしたのは20分にも満たないだろう。殆どは、若干商品に関連性があるかもしれない雑談であった。申し訳なくなって、こっちから、商品についてあれこれ聞いてしまうほどであった。「こういったカタログはないか」と聞いたとしても、今度持ってきますではなく、メールで送ります、だった。もはや来るまでもない会社と思われたのかもしれないが、こちらとしても早々に見切りを付けてくれた方が助かる。
 買うつもりもないのに、次回また来ますと言われても、それは誰のための営業であろうか。それは、その営業マンが日報に書きたいから来るだけのことであって、こちらのために来ているわけではないのだ。つまり、自分のための営業である。彼らにとっては、会社への報告がすべてであり、契約がとれようと取れまいと(とれればそれに越したことはないが)、お構いなしである。わたしは一定のことはやった。ここまでやったけど、ダメだったのは残念だった。あと一歩だった。そう日報に書くことができれば、仕事をしたことになる。しかし、それは会社の姿勢にも問題があると思う。

 つまり初回から結果を出せ、という指示をしているのである。すぐに結果を出せ、出せなければ怒るぞ、と。怒られるのが嫌だから、無理やりな営業をしかける。無理やりな営業をしかけると、相手を嫌な気分にさせる。強引に契約をしたからといって、決して彼にプラスにならない。強引で相手を嫌がらせる方法を覚えていくだけで、気弱な人からは奪い取ることはできても、やがて行き詰る。しかし、それに気づいたときには後戻りできないところまで来てしまっている。もしくは、気づくことができないまま、彼の営業人生はしぼんでいく。ピークは若さで強引に営業をしかけることで、カモを数人見つけることができるようになった30代の頃であろうか。

 それに対し、この日会った営業マンは、初回から契約を取りに行くのではなく、初回は顔を売るだけ、というまさに営業の基本を地でいった人であった。こういう人には、何かあったときに、声をかけようかなと思うのである。

2011年4月9日土曜日

陽気なギャングが地球を回す ― 伊坂幸太郎

 「陽気なギャングが地球を回す」という本が、とっても売れている、という話は聞こえてきていた。わたしは元来小説を読むのが大好きなのだが、近年では自分で買ってまで読むことはなくなっていた。小説は、一回読んでしまうとそれまでのような気がして、蔵書が棚に増えていくと部屋が狭くなってしまうので、あまり買わないようにしているという理由が大きいかもしれない。それが理由で本を読まなくなる、というのでは本末転倒かもしれないが。
 しかし、わたしのパートナーはそういうことは関係なしに、ふらっと本屋に立ち寄って、興味を持った本を買ってくる。この本を買って帰ってきたときは、そういう本が好きそうには見えなかったので意外だったが、売れている本がある、というのなら読まない手はない。

伏線が一回でわかる読みやすさ

 とにかく、読みやすい、というのが第一印象だ。非常にスピーディーに話が進んでいくので、イラつくことがない。読めば読んだだけ話が進んでいくという感じ。それだけに伏線の自己主張が目立つ。「ここは伏線ですよ」「このエピソードは後で使われます」とわかる。分かること自体は問題がないのかもしれない。伏線は覚えていなくては、ああ、あのエピソードがここで生きるのか、と思えないからだ。多くの小説は、分かりづらい感じでちらっと伏線をはっている。だから、一回読んだだけでは伏線とは気づかないことが多い。繰り返し読むことで、あ、ここにあの伏線があったのか、と気づくことになる。
 わたしは同じ小説を2度読むことは滅多にないので、最初からこの部分が伏線になりそうだな、と気づかなければ、伏線に気づくことはなく、その小説に関する印象が完成されることになる。本書では、伏線が一度読んだだけでわかるので、伏線がはってあって、ここで生きてくるのだな、というスッキリ感が味わえる。振り返ってみると、余計な話など、一つも含まれていないことがわかる。すべての話が必ずどこかでつながっている。もちろん計算によるものなのだろうけど、こういう小説はどうやって書くのだろう。

 もし、わたしが、うまい具合に伏線をつかった小説を書こうと思ったら、まず、伏線も何もないストーリーを考える。その結末には、少し荒唐無稽でご都合主義なまとめ方をしたものを用意する。そして、その強引な結末を、読者にうまいと思わせるために、最初の方で関係なさそうな話を伏線として後から入れてみる。そうすれば、強引な結末は、最初から用意されていた話として、強引ではなくなる。大体はこんな感じで書くんだろう。

 伊坂幸太郎がこのように書いているかは知らないけど、本書の読みやすさは、一回でわかるところにある。だから、特に本をあまり読まない人にお薦めである。本をよく読む人にとっては、物足りないかもしれない。
 わたしのパートナーは、続編にあたる「陽気なギャングの日常と襲撃」も買ってきていた。一冊だけでその作家を批評するのも何なので、もう一冊読んでみることにする。

2011年4月2日土曜日

春琴抄 ― 谷崎潤一郎

 先日、久々に会社の隣人K氏から、こんな小説があります、と手渡された本である。
小さい頃から本はよく読んだけど、日本の文学などはさっぱりだったわたしには、谷崎潤一郎はメジャーな名前だけど、どんな人?という感じだった。

日本文学は子ども向きか?

 そもそも、日本の文学というのは、10代の少年には面白くないものが多いのではないか。少なくともわたしはそう感じる。
 何せ、漫画や派手なアメリカ映画が好きだったのだから、それが、淡々と話が続き、なんとなく終わってしまうような本を読んで、おもしろかった、とはなりにくい。
 もちろん、日本の文学の中にも、子供心に面白いと思わせるようなものだってあるだろう。しかし、わたしが少年時代にそういった本にめぐり合うことはなかった。図書館で読んでいたのは怪人20面相とか、シャーロックホームズとか、そういった物語だった。少年時代に、図書館で本を読むと、本当に自分がおもしろそうと感じる本しか選ばない。だから、日本文学はつまらない、と思ってしまったら、まず手に取ることはないだろう。そもそも、わたしが探している本棚には、そういう本は1冊もなかった。

 もし、推理小説や冒険小説の本棚に、うまいこと日本文学をすべりこませていたら、あるいは手に取ったかもしれない。そうやって、知らず知らずのうちに、日本文学を読ませることができたら、それは図書館員としても、してやったりであり、図書館勤務の一つの醍醐味になるかもしれない。

 日本文学のよくない点はもう一つ、旧仮名遣いの古い本が残っていることだ。子どもには旧仮名遣いは読めない。読みづらい本は諦めてしまうか、もし読破したとしても、いまいち頭に入らないし、もういいかとなって、次に進まなくなる。図書館に、あまりに古い本を置いておくことは、読む側にとっては歓迎されないことである。とっておくことに意味があるのだとすれば、それは表に出さないでよろしい。

 しかし、正しい日本語を知る、言葉遣いを知る、という意味では、昔の本はとてもいいと思う。だから、子どもの内からこれらの本を読んでおけば、文章を書いたり話をするときに、知的になるのではないかと思う。本をたくさん読んでいると、文章を書くことを好きになりやすい。かくいうわたしも文章を書くのは嫌いではない。しかし、日本文学に触れてこなかったので、正しい日本語の使い方を知らないのが問題である。何せ、こういうのは感覚的に刷り込まれてしまうものだから、誰かから指摘を受けない限り、気づけないのである。

ツンデレとドM(でまとめてよいものか?)

 春琴抄は、春琴という良家に生まれた盲目の娘と、その付き添いの佐助という男の生涯の話である。100ページにも満たない短編だ。句読点が少なく、文章の終わりであるにも拘らず、次の文章がそのまま続けられているのが特徴的で、読みづらくもある、と読む前にK氏が教えてくれたとおり、いきなり次の文章に移るので、同じ部分を2回読まないと、意味がはっきりしないことがある。

 読後感は、ふーんという感じである。内容は淡々と春琴の我侭な性格と、春琴を愛してやまない佐助の、ある種倒錯的な愛の形を描いたものである。谷崎潤一郎は、倒錯的な愛を描くことが多い、とはわたしのパートナーの意見である。
 不器用で一途な男に愛された春琴が幸せだったのか、それともずっと傍で仕えさせてもらえたことが無常の喜びであったのか、おそらくその両方であろう。
 今で言うと、さしずめ春琴はツンデレであろう。そして、佐助はドMである。