2011年4月2日土曜日

春琴抄 ― 谷崎潤一郎

 先日、久々に会社の隣人K氏から、こんな小説があります、と手渡された本である。
小さい頃から本はよく読んだけど、日本の文学などはさっぱりだったわたしには、谷崎潤一郎はメジャーな名前だけど、どんな人?という感じだった。

日本文学は子ども向きか?

 そもそも、日本の文学というのは、10代の少年には面白くないものが多いのではないか。少なくともわたしはそう感じる。
 何せ、漫画や派手なアメリカ映画が好きだったのだから、それが、淡々と話が続き、なんとなく終わってしまうような本を読んで、おもしろかった、とはなりにくい。
 もちろん、日本の文学の中にも、子供心に面白いと思わせるようなものだってあるだろう。しかし、わたしが少年時代にそういった本にめぐり合うことはなかった。図書館で読んでいたのは怪人20面相とか、シャーロックホームズとか、そういった物語だった。少年時代に、図書館で本を読むと、本当に自分がおもしろそうと感じる本しか選ばない。だから、日本文学はつまらない、と思ってしまったら、まず手に取ることはないだろう。そもそも、わたしが探している本棚には、そういう本は1冊もなかった。

 もし、推理小説や冒険小説の本棚に、うまいこと日本文学をすべりこませていたら、あるいは手に取ったかもしれない。そうやって、知らず知らずのうちに、日本文学を読ませることができたら、それは図書館員としても、してやったりであり、図書館勤務の一つの醍醐味になるかもしれない。

 日本文学のよくない点はもう一つ、旧仮名遣いの古い本が残っていることだ。子どもには旧仮名遣いは読めない。読みづらい本は諦めてしまうか、もし読破したとしても、いまいち頭に入らないし、もういいかとなって、次に進まなくなる。図書館に、あまりに古い本を置いておくことは、読む側にとっては歓迎されないことである。とっておくことに意味があるのだとすれば、それは表に出さないでよろしい。

 しかし、正しい日本語を知る、言葉遣いを知る、という意味では、昔の本はとてもいいと思う。だから、子どもの内からこれらの本を読んでおけば、文章を書いたり話をするときに、知的になるのではないかと思う。本をたくさん読んでいると、文章を書くことを好きになりやすい。かくいうわたしも文章を書くのは嫌いではない。しかし、日本文学に触れてこなかったので、正しい日本語の使い方を知らないのが問題である。何せ、こういうのは感覚的に刷り込まれてしまうものだから、誰かから指摘を受けない限り、気づけないのである。

ツンデレとドM(でまとめてよいものか?)

 春琴抄は、春琴という良家に生まれた盲目の娘と、その付き添いの佐助という男の生涯の話である。100ページにも満たない短編だ。句読点が少なく、文章の終わりであるにも拘らず、次の文章がそのまま続けられているのが特徴的で、読みづらくもある、と読む前にK氏が教えてくれたとおり、いきなり次の文章に移るので、同じ部分を2回読まないと、意味がはっきりしないことがある。

 読後感は、ふーんという感じである。内容は淡々と春琴の我侭な性格と、春琴を愛してやまない佐助の、ある種倒錯的な愛の形を描いたものである。谷崎潤一郎は、倒錯的な愛を描くことが多い、とはわたしのパートナーの意見である。
 不器用で一途な男に愛された春琴が幸せだったのか、それともずっと傍で仕えさせてもらえたことが無常の喜びであったのか、おそらくその両方であろう。
 今で言うと、さしずめ春琴はツンデレであろう。そして、佐助はドMである。