2011年6月7日火曜日

海と毒薬 ― 遠藤周作

 組織に属すると、それが生活を支える割合が高ければ高いほど、善も悪も飲み込まなければならない場面に遭遇する率が高くなる。
 自分にとっての世界は、その場所であるからだ。それは、弱みにつけ込まれているともいえる。
 誰にも服従せずにやっていけるのは、ごく一握りの人であろう。人の下で働くのが嫌で、商売を始めたとしても、そこに買い手がいる限り、自分の好き勝手にやることは許されない。結局のところは顧客に従わざるをえない場面が訪れる。

 「海と毒薬」は、断ることも可能だったけど断らなかった人と、抗い難い何かのために従わざるをえなかった人の2種類がいる。前者は生い立ちにおいて、人としての道徳、感情がどこか人と違う感覚で育っている。後者は社会的弱者である(特に金銭面において)。そして、どちらもどこか人生を諦めてしまっている。結局人体解剖という悪魔の所業ともいえる行動に駆り立てたのは、研究欲でもあり、生来の性格のなせる業でもあり、自分の生きている社会への抵抗でもあったのかもしれない。

 会社において、人殺しとはいわないまでも、正しいとは思えないことを強要させられることはある。実際には強要させられたわけではないが、暗にやらなければ自分が困った立場に立たされる、ということはよくある。そういう不正を断ったために、社内においてはみ出し者として扱われてしまう人がいる。わたしの会社にも、かつてそういう人がいた。彼の場合は、そもそも変わった人であったので、なおさら理解されなかったかもしれない。不正に手を染めると、自分が責任を取らされるのではないか、という不安が、社内において面倒な立場になることよりも勝ったともいえる。弱者には、精神面の弱さや立場の弱さなど、様々な要素はある。しかしつまるところ、弱者はどこまでいっても弱者なのである。

 「海と毒薬」を読んで感じたのは、昔から続く上下の力学である。この普遍的な立場の違いは、実にどこまでいっても普遍的である。組織という狭い世界での立場は、その外の世界と比べられたとき、また新しい世界が始まる。そして、世界と世界の対立により、立場の強弱が決められ、また上下の力学によってコントロールされる運命にある。これは、人が人である限りやむことはない。そもそも動物は自分の子孫を反映させるために、何も考えずに生きて食べて死ぬのである。要は欲望のままに生きるのが生き物の本分である。人間は、あまりにその行動範囲や広くなり、そして自分の力を超えた兵器を手に入れてしまったために、抑制手段を用意せざるをえなかった生き物である。もっている生き物ともっていない生き物、ここでもまた上下の力学がはたらくのである。