2010年2月6日土曜日

小僧の神様 ― 志賀直哉

 私の仕事場の隣の席にいるK氏は、かなりの読書家で、雑談しているときに話の流れによってはその話に関する本を貸してくれることがある。

 以前借りた「魯山人の食卓」は、K氏が親子で回転寿司を食べに行ったときの話をしてくれたときに借りた物で、さらに、回転寿司といえば有名なチェーン店「小僧寿司」の由来となったのは、この話だということで、「小僧の神様」(志賀直哉)を貸してくれた。

 あまり小説や日本文学には興味がないのだが、薄い本であるため読んでみるきになった。文学に疎い私でも志賀直哉という名前は聞いたことがある。文書のシンプルかつ美しいことで有名な志賀直哉は、正しい日本語を学ぶことができるということでも知られている。本書の表題である小僧の神様をもじって、「小説の神様」と呼ばれていたりする。

 志賀直哉について調べてみた。志賀直哉は、白樺派というグループに属していた。白樺派とは、雑誌「白樺」に寄稿している人のグループのことを称した名前だ。白樺派は、主に学習院大学の学生で構成されており、裕福な家の出が多い。私小説のような話を書く人が多く、書く話の傾向が前向きであることから、世間知らずの金持ちのボンボンが考えそうな甘い内容、と揶揄されることもあるようだ。
 余計な描写が極力省かれているという志賀直哉の文体は、子どもに読ませるのに適しているらしいが、はっきりいって私小説は子どもにはつまらないのではないかと思う。

 私小説についても調べてみた。
 私小説とは、一人称の語りによる話を主とし、著者の身の周りで起こったことを題材としている。そのため、非常に現実的で生生しい半面、オチがなく面白みに欠ける内容になりがちである。ゆえに、私小説はつまらない、と嫌う人も多いとか。

 「小僧の神様」は、短編集で、一つの話は長くないのでサクサク読み進められる。主に一人称の話が多く、実話なのかどうなのかいまいちわからないうちに話が展開して終結を迎える。あとがきを読むと、志賀直哉自身が各作品について解説をしており、なるほど私小説なのだなということがわかる。

 表題作「小僧の神様」では、一人称は使われていないが、どうやらAという人物が著者本人ととらえる考え方が一般的のようだ。作中でAは、お金持ちだけどちょっと気が小さいという設定の人物で、小僧はその人を神様と崇めるようになる。
 この話の変わっているところは、オチに辿り着く前に著者自身の手で「この話はここまでで終わりとする」と唐突に終わりを告げられることだ。
 「実は、このあと~と書こうと思ったのだが残酷な気がしたのでやめておく」というのである。残酷という意味が当初はわからなかったけど、ここは何をもってして残酷なのかを考えることが大事なのだろう。著者が書こうと思ったとおりに結末を書いた場合、それなりにオチはついたけど、陳腐な話になっていたかもしれないので、これはこれでいいのかもしれない。受ける衝撃はこちらのほうが大きい。

 このような感じで、他にも収録されている話は、それぞれ、何となく終わりを迎える話や、主人公の心情などを汲み取らせるような話になっており、それを読み手が考えながら読むのがいいのだろうなと思った。まさに教科書に載せたい話、というところだろうか。

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