2010年2月15日月曜日

1984年 ― ジョージ・オーウェル

 仕事場の私の隣の席の図書館長ことK氏に、以前から借りていた「ロボット」「魯山人の食卓」「小僧の神様」を返した。K氏は「興味があった本は好きなときに持っていっていい」と言ってくれた。そして、次の瞬間「これを読んでみて」と「1984年」(ジョージ・オーウェル)を渡してくれた。

 「1984年」は、ハヤカワ文庫であった。ハヤカワ文庫といえば、SFやミステリ小説を昔よく読んでいたことを思い出した。K氏もそういう小説を読むのかと驚いたのだが、どうやら子供だましの本ではないらしい。

 ジョージ・オーウェルは、小説を通じて社会批判などを暗にする作家のようで、本書はソ連のスターリン政権下の圧政・管理社会を批判したものとして紹介された。本書は古典といわれるほどの有名な本らしいが、私は全く知らなかった。

 「1984年」の世界は、全ての情報を政府によって管理・コントロールされている。そこに暮らす人は、隠し事や逸脱行為(と政府が考えるもの)をすることを認められていない。プライバシーは殆ど存在せず、いたるところにテレスクリーンと呼ばれるモニタ兼スピーカーが設置されており、自分の家の中ですら行動は常に監視されている。

 少しでも望ましくない行動をしたとみなされたら、まず警告がテレスクリーンから流される。さらによくない行為と判断された場合は、警察に強制連行されてしまう。目に余る行動をとった人間はマインドコントロールされて政府の正当性を信じ込まされる。そして、数年間の社会復帰のあとふいに殺害されてしまう。こうすることで反乱分子を押さえつけるのではなく自主的に命を絶っているように見せかけるのである。普通に考えたらとんでもない世界である。

 しかし、ジョージ・オーウェルは、行き過ぎた言論弾圧は、こういった世界をつくることになるだろうと警告したのである。そこでは革新的な考えをする人は要注意人物としてマークされる。望ましいのは党(政府)のために財産も自分の時間も全てをなげうって尽くすことである。民衆は記録したり記憶したり考えたりしてはいけない。反乱の思想や手段を思いつかせないようにするためだ。
 このような統制下にあると人は、無気力・無感動になっていく。精力がない人間の行き着く先には何があるのだろうか。それこそただ無駄に生き・死んでいくだけの人生に、何の意味があるのだろうか。

 社会に出て忙しい毎日を送ると、会社と家の往復だけで、こんな人生に何の意味があるのだろうかと疑問に感じる瞬間がある。しかし、実はその状況は自分で変えることができる。ちょっとした隙間の時間を無駄にしない努力をしたり、転職して時間を確保したりすることは、本人の自由だ。結局文句を言うこと自体が甘えなのかもしれない。
本書を読むと、そんな文句ばかり言っていた自分を反省することにもなる。時間がないといいつつも実はあるのではないかと考えるのだ。

 「1984年」は、警告の意味を込めたものであろうから、結末もそれなりである。そこがエンタテイメント小説とは一線を画すもので、「うーむ」とやりきれない感じで終わりを迎えることになる。

 世の中にはアフリカのように無秩序に放置されていることが問題となっている国々がある一方、極度に管理された社会というのも大きな問題である。結局はバランスだと思う。これは子育てでも同じではないか。放任主義も行き過ぎれば無秩序を生むし、管理しすぎも本人の個性を奪いある日突然爆発するような危険性を生む。
 個人の権利を認め、その権利を侵害するものは罰するというルール作り。そのルールが皆にとって公平だと思えるものでなければならず、それでいて適度な競争社会で発展も促さなくてはならない。このバランスを保たせるために守らなければならないことは、それぞれの役割から逸脱してはならないということだ。そういったルールは現実の社会ではきちんと作られているにも拘らず、抜け道を探す輩がいて、うまい汁を吸う者が必ずといっていいほど現れてしまうというのは悲しい現実だ。

 選挙で選んだ政治家が結局は利権に踊らされて、不正のない社会を作るという目的は達成されない。それならば、不正は不正であるものとして仕方がないことだと割り切り、それでもなお国民全体の生活が潤い、不満を感じない社会作りというのはできないものなのだろうか。もし政治家が不正を働いていたとしても、生活が苦しくなければそれほど文句は言わないかもしれない。そんなことをふと考えた。

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